注目の本郷中学校・2月1日入試の<その後>
今日は、この間まで連日受験勉強にいそしんで来た中学3年生たちの、「中学生としての最後の授業」の実施日です。
生徒たちは、いま、『ある青年の思い出』という文章を読み、それぞれに自分の感じたことを、書きつづっているところです。『ある青年の思い出』というのは、1993年4月、UNTACの選挙活動中にカンボジアで亡くなられた中田厚仁さんのことを彼らに知ってもらうために、私が書いた文章です。
学齢期のお子さんたちをお預かりして、勉強に加え、成長期・発展期にある子どもたちに必要なもろもろのことを教えるのは(感性であり、あるいは情操であり、ときとして礼儀、またくじけず、投げ出さずにやりとげる力だったり、やるべきこと、逆にしてはいけないことの見きわめなど、決まった時間を一緒に過ごし、指導する立場として、じつに多くのことがあります)、われわれ塾の教師にとって、身の引き締まる大事です。
その中でも、特に教師の立場として重い役目と責任を感じるのは、中学3年生に対してです。
受験というくくりで言えば、大学受験も中学受験も、みな同じように大きな関門であり、大学や中学に別の道があるからと言って、責任の軽重に、決して違いのあるものではありません。また、今年受験生であるかないかということは、塾が子どもさんをお預かりするにあたって、いささかも注ぐべき力の大きさを左右しません。例えば10歳には10歳の、13歳には13歳の、その時にしかなし得ない大事な育て方の要諦があるからです。
ただ、受験というタイミングが一つの節目であり、そこで一定の区切りがつくことを考えると、中学受験をする小学6年生は、今までの「子どもの世界」から、「子どもと大人の中間」である思春期の中学時代に、これから入って行く子たちです。そして高校3年生は、思春期を終え、ある人は実社会に出て行くのであり、進学という進路とて、自分で責任を持って決定して行く年代でありましょう。
が、中学3年生は、こうした意味で、一番変化の激しい場所に立っています。境遇は「中学生」から「高校生」に変わるだけですが、心のありようの変動はここが一番大きく、柔軟でもあり華奢でもある思春期の真ん中なのです。ここから、彼らの実人生の第一歩が開かれて行くと言っても、決して過言ではないでしょう。
このような理由から、中学3年生の卒業生たちに関しては、ある種特別な思いで送り出すのがならいです。そして、この時に『ある青年の思い出』を全員に読んでもらい、15歳のそれぞれの心に触れた厚仁さんについて、思うところを自由に書くことで、広い世界に飛び出してゆく彼ら、彼女らに、何かをつかみとって欲しいと考えているのです。
この時期、大きな世界への旅立ちを前にして、卒業生たちの心はきれいに磨かれていて、素直です。こちらが何も言わなくとも、彼らは厚仁さんが何を信じて生きておられたのか、そして自分たちが厚仁さんから何を受け取ることができるのか、率直に見きわめて、自分の思いをつづってくれます。つまるところ、「自分の可能性や将来を信じ、そのために懸命に生きる」ことの大事さを、この時間に皆が受けとめてゆくのですが、それは25歳で亡くなられた中田厚仁さんが、どのような言葉で語りかけるよりも直接的に、現在の若者たちに、命のすばらしさを教えてくれるのだと思えてなりません。
冊子としてまとめた『ある青年の思い出』は、昨年、厚仁さんのお父様の中田武仁様に、お送りさせていただきました。中田様の御著書の出版社の方のお手をわずらわせることにはなりましたが、お送りすること自体は、言問学舎でこの授業を始める時から、決めていたことです。
そして今日、このことをお知らせするのは、先に述べたように「純真な若者の心に、生きることの尊さ、信じることの大切さを、誰よりも雄弁に教えてくれる」中田厚仁さんの存在と、その「力」を、より多くの方に知っていただきたいと思うからです。亡くなられてから、この4月8日で満二十年。小さな言問学舎ですが、今日の授業を終えると通算で56名の中学3年生たちが、厚仁さんのことを知り、何かをその15歳の胸に受け止めて、新しい世界へ羽ばたいて行くことになります。
話して聞かせることでは決して伝えきれない、大きな大きなものを子どもたちに教えるために、計り知れない力を与えて下さる厚仁さん。改めて厚仁さんに感謝の思いを申し上げ、より多くのみなさんに、厚仁さんのことを思っていただきたいと願います。
平成25年2月27日、卒業記念授業の夜に
小田原漂情
国語力に定評がある文京区の総合学習塾教師
小田原漂情
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