今なすべきことを振り返ると-
10月の声を聞き、吹きすぎる風に秋の深まる匂いを感じると、おのずと口を衝いてこぼれ出す詞(ことば)が、そして美しく忘れがたい、希有なる旋律があります。
♪・・・友と語らん 鈴懸の径・・・・・
灰田有紀彦(晴彦)先生が作曲され、勝彦先生の歌われた『鈴懸の径』です(佐伯孝夫作詞)。発売されたのが1942年(昭和17年)10月のことでもありますが、秋の深まる気配や青く澄みきった空、色づき始めた紅葉などがこの名曲をよみがえらせる、いま一つの符合があります。それは灰田先生ご兄弟のご命日が、ひとしくこの10月であることです。
いまから29年前の1982年(昭和57年)10月26日に、ご兄弟の弟である灰田勝彦先生が亡くなられました。日本のハワイアンの父と呼ばれる存在であり、自ら結成されたモアナ・グリークラブで勝彦先生の歌手への道を開かれた灰田有紀彦先生(長く「晴彦」として活躍されました)は、勝彦先生を兄として見送られ、4年後の1986年(昭和61年)、奇しくもおなじ10月の、十日ちがいの16日に、亡くなられたのです。
立教大学の構内に、『鈴懸の径』の歌碑があります。「鈴懸の径」の歌詞の字は、勝彦先生が亡くなられる前に、ご自身で書かれたものだということです。この碑の除幕式は1982年11月3日に行なわれ、出席を楽しみにしておられた勝彦先生のご最期に間にあわず、われわれファンも悲しく記憶したものでした。永年灰田ファンでおられた二人の方から、私もこの碑に対する深いお心を伝えられ、おひとりの方とはご一緒に、頭を垂れました。
このように深い思いを抱かせて下さった源泉は、やはりあの『鈴懸の径』の美しい旋律なのだと思います。10月になるとともに自然にこの歌を口ずさむようになって、もう30年近く経ちました。窓の外に虫の声が響く夜の部屋で、長い年月のことを思いつつ、心に浮かぶままをしたためた次第です。いま一曲、ご兄弟の不朽の名曲と呼ぶべきである『森の小径』ととも、きっと自分でも歌わせていただいて、より広くのちの世に伝えたいと、心にふかく念じながら。
参照『灰田有紀彦/勝彦 鈴懸の径』サンクリエイト
『新雪』小田原漂情 唄 http://www.youtube.com/watch?v=UWuJJRqCtvQ&feature=youtube_gdata