愛情のケチ
極寒の季節から、少し暖かくなると、少しの事でも倍ほど幸せに感じます。
冬の寒さを体験する雪国の人ほど、春の暖かさが肌身に沁みるはずです。
生きている中、誰も傷つけずに人生を送る事は難しいですが、傷つけられた立場とは、感じ方が違います。
誰の苦しみが、1番酷くて、誰が2番とは言いません。
でも確かに、傷つける側と、傷つけられる側とでは、後に残る思いが違います。
私は桜の季節が嫌いです。
桜の美しさが、よけいに悲しくって、いやな体験が蘇ります。
子育てに必死だった若い頃、どういう訳か、春になると私の元夫は事件?を起こしました。
子供が卒園式を目前に、「この暮らしが無くなる」という危機感に恐怖を覚えてました。
元夫の心は、家庭の外に向いています。
4月から、子供が学校に進み、子供の将来を応援する父親ではなくなり、一人の浮気男になって、家庭を捨てようとしている事件が時々起きて、卒園式や入学式は、私一人でこなさないといけません。
ランドセルを買う事も,私一人。
学習机を買おうとすると、元夫は、「本当に勉強をするなら、どこででもできる。みかん箱で充分だ」と言い、机を買う事を反対しました。私はそれが元夫の教育方針だと思って、我慢をするしかなかったのですが、今にすれば、なんのこっちゃない。
自分の遊びの為にお金を使いたかっただけ。
元夫の本音がわかるのは、もっと後からでした。
具体的に言うと、浮気の事が解って・・・・そして私も自分の「父親なら子供の成長だけを楽しみにするはず」という幻想を捨ててから、初めて元夫の本音が見えてくるのは、もっと後なのです。
家長である元夫は、こうあるべき。
父親なら何が何でも子供を一番に考えるべき。
・・・・・こうした「べき」という考えを、頭から消した途端に、現実は、そのままを見せてくれました。
べき的な眼鏡で、物事を考えると、それは「べきのフィルター」を掛けているので、現実を見えなくさせているのは、誰でもなく、私でした。
夫の気持ちを知りたいと思われる妻は多いです。
でも、みんな、真意を測る前に「夫ならばこうあるべき」という最低基準があり、その基準に反する夫の行動に、「何故こんな事をするのだろう?」と、疑問は持っても、疑問で終ってしまうのです。
では、どうして、疑問止まりなのでしょう。
つまり「夫や父親はこうあるべき」という水準が邪魔をして、それ以外の事はあってはならないと考えています。だから、そこで思考が停止してしまうのです。
もちろん、あってはならない事は解るのですが、でも、もう起きてしまったのです。
それをあってはならない事をいう考えをすると、そこで蓋をしてしまいます。
何故?何故?という疑問だけで終るのは、現実を直視できていないから。
何故なの?不思議でならないという「不思議の国アリス」になってしまっています。
不思議止まりで物事を考えるのは現実を見ていない。つまり現実逃避なのです。
そういうタイプの妻は、いくら夫の行動に疑問を抱いても、それ以上は進めません。
私のところに相談に来られて、私がご主人の行動を分析しても、それが受け入れられない。
いつまで経っても、「何故、そんな嘘を付くのか、不思議なんですよね~」という事ばかりを言い、その先のアドバイスが頭に入ってきません。
その理由は、考え方の主軸が、妻(私)なのです。
つまり裏切られる「自分」が主役で、裏切られた恨みで、そこから出ないのです。
でもこれは、ちょっと、自分という考えを捨ててみることで、抜け出る事が出来ます。
裏切られて、傷ついてる自分をちょっと、横において、登場人物の誰にも感情を持たせない物体だと考えてみるのです。
これが客観的に問題を見ることが出来る秘訣です。
自分の考えというフィルターを掛けずに、物事を見たときに、初めて、真実の視界が広がります。
私も長い間、このフィルターを掛けたままで、元夫を見ていました。
家族を裏切るはずがない、という私の幻想を捨てた途端に、すべてが見えました。
で、冒頭に戻りますが、私は春になると、何かを起こす元夫のお陰で、桜が散ると、私の涙のように見えてしまい、はらはら散る桜の季節は、いまだに、悲しい感情が蘇ります。
テレビでは、新入学の子供を応援する歌が流れ、子供は無邪気に飛び跳ねて歌っていましたが、私はいまだに「ドッキ,ドキドキ一年生♪」の歌は、いまだに涙がこぼれます。
「友達100人作るんだ♪」もいい歌なのに。
多分、元夫はこんな私の感情なんて知らないだろうな~
苦しみは与えた者は、案外残っていないものですが、苦しんだ方は、その時期に一瞬で引き戻されます。
今年は、孫が小学生1年生になります。
もういつまでも過去の悲しみに引き戻されるのは止めます。
純粋に桜を楽しみたいと思います。
こうして自分の感情に流されず、自分で悲しみのループから抜け出る事はできます。
皆様も、留まっていてはいけません。流れる川が綺麗なように、留まらないで行きましょう。
では今日はここまで。