愚痴を言わなくなる方法
二十数年来の悪友Nがいます(笑)
ここのところは、数年に一回しか話してないですが、昔はよく二人で何時間も話し込んでいました。
Nとは、20代の頃に同じデイケアで働き、
介護に対する価値観が似ていることから、よく遅くまで事業所に残って理想の介護について話していました。
事業所が施錠された後も、事業所の前で結局夜中まで話したり、
休みの日に喫茶店でコーヒー一杯で何時間も居座ったりと、話し合った時間で言えば嫁さんより遥かに長い。
その後、私はその事業所を退職し、特養での業務を経て、新規施設の責任者をします。
その施設に、相談員としてNを呼んでまた一緒に働いていましたが、
そこを離れてからはNは現場一筋、私は管理職からコンサルの道へ。
進んだ道は違えど、私が最も信頼できる男であることに変わりありません。
そんなNと一緒に仕事をしていたデイサービスに、ある利用者の方がいました。
地域の他の介護事業所から要注意人物として利用を断られるくらい難しい方で、
うちのデイでもいろいろと問題を起こしてくれる。
認知症があるわけでもなく、性格、思考、言動からトラブルになることが多く、
各所に助けを求めるのですが、「ケアの問題ではない」との理由で、どの専門家も関わろうとしてくれない。
具体的なことは書けないですが、うちのデイでも数え切れないほどのトラブルを起こしてくれて、
「うちでは対応できない」と直接ご本人に伝えたことさえあります。
とはいえ、他のどこの介護事業所も対応しないので、結局ずっとうちのデイを利用されていました。
ケアマネさんも、「おたくのデイに見放されたら◯◯さんが生活できなくなるんです」と。
ある時から、私はその利用者さんを「利用者」と見るのも手放し、一人の「人間」と見るようになりました。
介護サービスの利用者と見ると、「利用者としてあるべき姿」でジャッジしてしまうし、
こちらも「介護事業者としてあるべき姿」でいないと身構えてしまう。
ゆえに、その「あるべき姿」に合わないと「問題」になり、改善を求め、できなければ排除したくなる。
なので、一人の人間として見て、付き合っていくことにしました。
そう思うようになってからは、
「問題を起こす利用者」ではなく、
「ちょっと豪快なオッチャン」にしか見えない。
それまで、問題点しか見えなかったのが、良いところが見えるようになり、付き合い方もなんとなくわかってきた。
相談員の悪友Nは、私よりもはるか前にそうしていたように思います。
もちろん、現場スタッフまでがそう思えていたわけではないので、日々スタッフからクレームがあがっていましたが、
少なくとも私と、相談員と、現場責任者の3人はその利用者さんを「人間」として見ていた。
そんな豪快なオッチャンの口癖は、
「お前のとこで死にたいわ」
でした。
デイサービスでそれはできない、と返していましたが、彼は本気だった。
何年もデイを利用していたんですが、ある時期から急激に状態が悪くなり、
歩くことも立ち上がることもできなくなってきたんですが、それでもうちのデイ以外の選択肢(入院など)を選ぼうとしない。
通院さえ行ってくれない。
本来許されることではないですが、一人の人間として向き合っていたので、お互いケンカ腰で思いをぶつけ合ったこともあります。
それでも、最後には
「お前んとこがええんや、頼むわ」
と呟くように言われると、こちらが折れるしかなかった。
ケアマネさんも、民生委員さんも、うちのデイもみんな困り果てていましたが、私たちは覚悟を決めて、
「◯◯さんがあそこまで言うなら、とことん付き合ってあげよう」
ということになり、
もしもの時の体制を整えつつ、本人が意識を失うまで対応し続けました。
大柄でかなりの体重でしたので、入浴・トイレ・移動すべて大変でしたし、
車椅子さえ通れない細い道が入り組んだ地形のアパートで一人暮らしをされていたので、
立てなくなってからは、歩いて迎えに行き、抱えてデイまでお連れしたことも何度もありました。
最後の最後までその人「らしく」、憎まれ口をたたき続け、
いよいよ返事をしなくなってから、救急車を呼び、私と相談員と現場責任者も車で病院へ向かい、
夜遅くに息を引き取るまで一緒にいました。
「デイで最後まで」は厳密に言うと叶えていませんが、
意識を失う瞬間までデイにいてもらいましたので、ある意味希望に沿ったと思っています。
この経験以降、私はどんなに困難事例と言われる利用者さんと関わることになっても、ほとんど「問題」とは思わなくなりました。
もちろん、身体的、精神的に負荷のかかる出来事は数え切れないほどありましたし、
介護保険制度上問題にあたるケースだって日常茶飯事。
でも、「サービス提供者とサービス利用者」、「援助者と要援助者」という枠組みをいつでも外すことができるので、
「人間と人間」で見れば、さほど大きな問題ではなかったりする。
そして、そうなれたのは、Nの存在が大きい。
一人では気付けない、できないことも、
仲間がいれば気付ける、できる。