その子の内側の体験の世界7
「その子の内側の体験の世界」第2回目を解説します。
キーワードは、「その子を知る」「その子にはたらきかける」「その子を見守る」です。
また、今まで解説してきたことと重複するかもしれませんので、今までのコラムも再読していただければ幸いです。
その子を知る1
その子が外から見たとき、いつも落ち着かず乱暴だというここと、その子の目には、外がどう映り何をどう感じているのかということは、むろん無関係ではないが別のことです。
「多動で衝動的だから、ADHDです」とは、外からみたその子の行動の理解であって、その子自身の体験の理解ではありません。
診断は「行動」からなされても、育児や保育はもちろんのこと教育者や各種指導者(以下、子どもに携わる方と述べます。)においてもその子の「体験」を理解しなければなりません。
つまり、その子の診断はされたが、その子の体験のケアをどう育児・保育に教育に各塾に反映するのかが理解されていないのです。
なぜなのでしょうか?
それは、育児や保育はもちろんのこと教育など子どもに携わる方が、その子の外側から見た様子、つまり外側からとらえた「形」「型」「ふるまい」「考え方」など他のみんなと同じかどうかで判断し、それらと違う様子から「違い」を判断しているだけなのです。
大方の人はなぜそう判断するのでしょうか。
精神発達とは、一個の個体として生まれた子どもが、感覚を共有し、衝動を共有し、関心を共有し、ふるまいを共有し、認識を共有しというように、周りの人々との分かち合いを進めて、社会的・共同的な存在へと育っていく歩みなのです。
つまり、発達の歩みとともに私たちの体験の仕方は基本的には「同じ」になっていきます。
この「同じ」から外れた(disorder)「違い」だけで、その子を知ることにはなりません。
この「同じ」から外れた(disorder)「違い」は、認識的にも関係的にも体験の共有に遅れをもつところに本質があります。
そのため、様々な体験の仕方が、必ずしも共有的なもの(みんなと「同じ」もの)とはならず、個人ごとのオリジナル性が高くなります。
そのため、定型的発達の人との違いは大きくなります。めいめいがとても個性的なのです。
この「違い」のオリジナル性を理解すること、つまり知ることからその子の理解が始まります。
次週に続きます。(土日は、イベントのためにコラム掲載をお休みします。)