西川りゅうじん氏の一押し?
家内と一緒に黙祷 午前5時46分
6,434人の鎮魂のために
【阪神・淡路大震災 25年前の記憶】
1995年1月17日 午前5時46分に起こった阪神・淡路大震災から学んだこと。
毎年この日に立ち止まり『命の尊さ』を感じます。
決断と孤独と絆を感じる一年でした。
当時の記憶を、決して忘れることが無いように書き上げました。
当時、私は当時、分不相応の社団法人加西青年会議所第28代理事長の役職にいました。
加西から兵庫ブロック協議会議長を輩出しており、震災前日は県下27青年会議所の委員長を加西に招いて委員長会議を行っていました。
交流会が終わり私が自宅に帰ったのが、深夜。少し眠ったと思ったら大きな地震。慌てて外に出て、街頭の灯りを頼りに周りを見渡すと、瓦が落ちている民家が数軒。
ひどくは無かったのだと安心しているところへ委員長会議議長から連絡有。
17日当日に兵庫ブロック協議会役員の新年祈願が、神戸生田神社で行われる予定でしたが役員と連絡が取れない上、生田神社が被害を受けているとのこと。
夜が明けるにつれ、テレビの映像をみて・・・信じられない光景。
取り急ぎ情報収集のために、加西市役所へ向かう。加西市役所でも把握できない状態。
【今できる支援は何か】
神戸より給水支援の依頼要請があった。
震災二日目に給水支援でメンバーの志願者のみが神戸にはいる。
二次災害の危険性があるために組織ではなく、個人の志願に頼る。
実態の報告を受け、給水支援を青年会議所会員が中心となり加西市役所と継続することに決める。
神戸ポートアイランドは、液状化現象。
どろどろの道路を、給水車が走る。
エレベーターの止まった高層マンション最上階まで「水タンク」を一緒に持って上がることが当然の作業になっていました。
余震のある中で、この支援の会員は徐々に増えていきました。
現地に行った会員は、兵庫県民にとってオシャレでシンボリックな街、神戸の将来に不安を感じたようである。
「理事長は加西に居て指示をだして欲しい!」
その言葉に納得してはいるものの、我慢できずに、四日目に神戸中央区役所に情報収集に向かう。
公的避難所以外の場所への被災者が多く、お弁当などの配布に正確な指示ができない状態。毎日配布される場所もあれば、全く物資が届かない場所もある。
区役所職員からは「自分達で判断してほしい」とのこと。
焚き火をたよりに人が集まっている場所に届けるしかない。
しかも、冷たいおにぎりでは・・・
混乱する情報を整理する必要性と、共有のために、播淡8JC(青年会議所)理事長会を震災五日目に行う。
淡路と明石は被災している為に出席が叶わない。
西脇、小野加東、三木、加古川、高砂、加西のみの会議がはじまる。
尼崎JC輩出のブロック協議会会長も、被災しているにも関わらず、会議に駆けつけてくれた。
【地域が束なる継続支援】
継続支援の必要性と、青年会議所が束なる支援ではなく、それぞれの地域のボランティア団体を取りまとめることに決議。
その上で、全国からの救援物資集積基地(当時、グリーンピア三木。現ネスタリゾート 神戸)の管理運営を担当することにしました。
ここでの実態は当初「被災地に持っていきます」だけで、ノーチェックで物資が運び出されている光景をみました。
また、ある避難所ではテレビカメラと同行したボランティアグループの宣伝用の活動に不信感をもつ被災者も多く見られました。
私達が炊き出しの食材を持ち込んだ避難所でいきなり自信を失う。
避難所代表から「君達は今度いつ来てくれる?」の言葉。正直その約束が出来なかったのです。
やはり、一団体だけでは継続は無理。
加西にはすでに支援をされていたロータリークラブ、ライオンズクラブ始め、PTAや福祉団体、婦人会等14の団体がありました。
早速「加西救援連絡会」を、青年会議所前年度理事長に会長を受けてもらい発足。さっそく毎週水曜日と日曜日の二回400名の炊き出しを継続することにしました。
弊社社有車キャラバンが緊急車輌許可済の炊き出し号として出動。
ところが、青年会議所会員からJC(青年会議所)の御旗で活動したいとの声もあがっていた。
私は、例会の席上で声を震わせました。
「青年会議所メンバーも、地域の一構成員です。このような事態だからこそ、表に立つのではなく縁の下で、救援連絡会を支えて欲しい。JCという団体は、今、忘れてください」
会員は根気強く、本当に良くやってくれました。
炊き出しボランティアスタッフのシフトや配車の手配、食材の手配、炊き出し機材の清掃と管理など。
炊き出しは、神戸北野《行吉学園》周辺被災者を対象としました。
食材が足りないと、それぞれの人脈を活かして調達します。
わざわざ食料品店で買ってきた食材をお持ちくださったご婦人に 、会員が 「自宅にあるものでいいですよ」と言うと「自分は現地には行けないし行っても足手まといになる、せめてこの食材を貴方達に届けてもらいたい」
その言葉に涙が止まりませんでした。
地元をはじめ、全国から食材を手配することとなりました。
妻の実家の新潟の亡義父の手配で、加島屋さんから「鮭の切り出し」などもいただきました。
【ボランティアは自己完結型】
「現地での炊き出しの準備や後片付けに被災者の協力がない」そんな不満もボランティアから出始める。
「してあげてる」気持ちを捨ててほしいとお願いする。いつの日か、一人二人とお手伝いしていただけるようになった。
ようやく信頼関係が生まれた瞬間でした。
ライフラインがようやく戻りつつある状況で、衛生面を考慮し、今度は神姫バスや県の宿泊施設「いこいの村はりま」の協力を得て【友(湯)・愛バスツアー】を開催。
バス2台に分かれて加西へ招待。
お食事を楽しんでいただき、お風呂や理容組合様のご協力による散髪。
準備した衣類に着替えて帰られるときは、やっぱり神戸の皆さん、とてもオシャレに着こなされていました。
その後も、炊き出しを3ヶ月間継続しました。
近隣の市町村が夏祭りを自粛する中で、私達は『神戸の復興』をキーワードに祭りの開催を決定しました。
【K’sときめきフェスティバル(神戸のKと加西のK)】神戸からも出店していただいたり、地元の各種団体に協力していただき、バザーを中心に開催。
市役所前駐車場でステージやテントの設営。お天気が良くない。雷が響く。
「開催当日早朝の測候所発表で 警報がでたら中止します」
そんな心苦しい決断を、前日夜遅くまで設営準備しているメンバーに伝える。
悔し泣きする祭り実行委員長の姿。
「宮本理事長は冷たすぎる…」という者も・・・会員の安全を守るための判断。
【念ずれば花ひらく】
小雨の中、無事に開催されました。
さらに、フォーライフレコード会社宣伝部の大学時代の友人(現大手芸能プロダクション副社長)に頼んで、全国で8会場しか計画していない【伊勢正三と池田聡のジョイントコンサート】も加西で実現。メンバーはチケットを姫路の街頭で販売してくれました。
【コミュニティーの変化】
ようやく仮設住宅が準備され、避難所から仮設に移る。今までのコミュニティーがなくなっていく…
ポートアイランド仮設住宅の一人暮らしの高齢者はお米を買いに行くにも大変な状況。そこで《3ライス神戸(3キロのお米)》を、応援メッセージ付きで募集、配布するコトにしました。
緊急の連絡のために、ベルボックス(119への連絡)の研究と実践を亡山田和尚氏(神戸元気村代表)に協力して実践していきました。
また、兵庫県ボランティアのつどいでは、県公館にて堀内正美様と一緒にパネラーとして身の丈を超えた発言の機会もいただきました。
あっという間の2年間でした。
震災ボランティアの体験を通じて多くの方々と絆をつくることにもなりましたが・・・失う辛さも経験しました。
当時の日本青年会議所会頭のご子息も震災で亡くなられているにも関わず・・・
気丈にも、全国のメンバーに向けた救援の激励メッセージテープ。
当時、共に活動した青年会議所仲間も、体調を崩し逝去や、震災以後の不況で、事業をたたむ者もでてきました。
【当たり前が幸せ】
今、このようにして三食いただき普通に生活できる事を幸せと感じています。贅沢は必要無いのです。
これを機会に数年間は、1月17日はおにぎり一個だけで我慢します。まだ幼かった長男や長女は理解して協力してくれました。
人を支えるのは、やはり人です。
『人の縁』に気づき、それを活かす人生を送りたいものです。
こんな経験が今の僕を作り上げてくれました。
長文、お付き合い下さりありがとうございました。