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コラム

阪神淡路大震災から学ぶ

2015年1月16日

テーマ:社長のひとりごと

コラムカテゴリ:趣味

阪神淡路大震災から学んだこと。この日を迎えるにあたり毎年立ち止まって「命の尊さ」を感じる時。当時の思い出を書き綴りました。長文ですがお読みいただけれれば嬉しいです。

20年前の思い出。辛すぎる一年でした。頑張れた一年でした。
阪神淡路大震災当時の記憶を、決して忘れることの無いように
書き上げました。「語り部」になろうと思います。

当時、私は社団法人加西青年会議所第28代理事長の
役職にいました。
加西から兵庫ブロック協議会議長を輩出しており
震災前日は、県下27青年会議所の委員長様を加西に招いて
加西で委員長会議を行っていました。

私が自宅に帰ったのが、深夜。少し眠ったと思ったら大きな地震。
外に出て、街頭を頼りに辺りを見渡すと、瓦が落ちている民家が
数件。。。ひどくはなかったんだと、安心しているところへ
吉田博之委員長会議議長から連絡有。

今日17日に兵庫ブロック協議会役員の新年祈願が
生田神社で行われる予定でしたが
役員と連絡が取れない始末、その上、生田神社が
被害を受けている情報。。。

段々明るくなるにつれ、テレビの映像をみて・・・信じられない
取り急ぎ情報収集のために、加西市役所へ・・・
加西市役所でも把握できない状態。 今、何が必要なのか?
神戸より給水支援の依頼要請があった。

震災二日目に給水支援でメンバーの志願者のみが神戸にはいる
二次災害の危険性があるために
理事長命令ではなく、個人の志願に頼った。
実態の報告を受け、給水支援を加西市役所と継続することに決める。
神戸ポートアイランドは、液状化現象。
どろどろの道路を、給水車が走る。
エレベーターの止まった高層マンションの最上階まで「水タンク」を
一緒に持って上がることが当たり前になっていました。
余震のある中で、支援に行くメンバーは徐々に増えていきました。
現地に行ったメンバーは、兵庫県民にとってシンボリックな街:神戸
その将来に不安を感じたようである。

理事長は加西に居て、指示をだして欲しい!
その言葉に納得してはいるものの
辛抱できずに、四日目に神戸中央区役所に情報収集に向かう
公的避難所以外の場所への被災者が多く、
お弁当などの配布に正確な指示ができない状態。
毎日配布される場所もあれば、全く物資が届かない場所もある。
区役所職員からは「自分達で判断してほしい」とのこと。
焚き火をたよりに人が集まっている場所に届けるしかない。
しかも、冷たいおにぎりでは・・・

現状の混乱を整理する必要性と、情報共有のために、
播淡8JC(青年会議所)理事長会を震災五日目に開催する。
淡路と明石は被災している為にもちろん参加できない
西脇、小野加東、三木、加古川、高砂、加西のみの会議。
尼崎JC輩出のブロック協議会高岡会長も、被災しているにも
関わらず、会議に駆けつけてくれた。
継続支援の必要性を確認しあい、私達が束なる支援ではなく、
それぞれの地域のボランティア団体を取りまとめることにした。
その上で、全国からの救援物資集積基地(グリーンピア三木)の
管理運営を担当することにしました。
ここでの実態は当初「被災地に持っていきます」だけで、
ノーチェックで物資が運び出されている光景をみました。
また、ある避難所では、テレビカメラと同行したボランティアグループの
宣伝用の活動に不信感をもつ被災者も多く見られました。

私達が炊き出しの食材を持ち込んだ避難所で
「君達は今度いつ着てくれる?」の言葉に衝撃を受けました。
正直その約束が出来ない現状でした。やはり、一団体だけでは継続は無理。

加西にはすでに支援をされていた14の団体がありました。

『加西救援連絡会』(民輪正秀直前理事長にお願いし会長受けてもらう)を発足し、早速、毎週水曜日と日曜日の二回「400名の炊き出し」を継続することにしました。この事務局と青年会議所専務理事を兼務してくれた濱本泰秀氏には苦労かけました。
ところが、青年介護所メンバーからは、JC(青年会議所)の御旗で
活動したいとの声もあがっていた。私は、声を震わせました・・・
青年会議所メンバーも、地域の一構成員です。
このような事態だからこそ、表に立つのではなく
縁の下で、救援連絡会を支えなければいけない!
JCという団体は、今、忘れてください!

メンバーは根気強く、本当に良くやってくれました。
炊き出しボランティアスタッフのシフトや
配車の手配、食材の手配、炊き出し機材の清掃と管理など
炊き出しは、神戸北野「行吉学園」周辺被災者を対象としました。
食材が足りない・・・それぞれの人脈を活かす。
わざわざ食料品店で買ってきた食材を持ち込まれた
ご婦人に メンバーが 「自宅にあるものでいいですよ」
そう言うと、「自分は現地には行けないし
行っても足手まといになる、せめてこの食材を
貴方達に届けてもらいたい」
その言葉に涙が止まりませんでした。

地元をはじめ、全国から食材を手配することとなりました。
家内の実家の義父の手配で、新潟の加島屋さんから「鮭の切り出し」
などもいただきました。感謝!
現地での炊き出しの準備や後片付けに被災者の協力がない
そんな不満もボランティアから出始める。
「してあげてる」気持ちを捨ててほしいとお願いする。
いつの日か、一人二人とお手伝いしていただけるようになった。
ようやく信頼関係が生まれたのでした。
ライフラインがようやく戻りつつある状況で衛生面を考慮し
今度は神姫バスや県の宿泊施設「いこいの村はりま」の協力を得て、
「友(湯)・愛バスツアー」を開催。
バス2台に分かれて、加西のいこいの村に招待。
お食事を楽しんでいただき、お風呂や、理容組合様の散髪や、
準備した衣類に、着替えられて帰られるときは、
やっぱり神戸の住民です、とてもオシャレに着こなされていました。

その後も、炊き出しを3ヶ月間継続しました。

近隣の市町村が夏祭りを自粛する中で、私達は
『神戸の復興』をキーワードに祭りの開催を決定しました。
「K’sときめきフェスティバル(神戸のKと加西のK)」
神戸からも出店していただいたり、地元の各種団体様に
協力していただき、バザーを中心に開催。
その売上金を寄付するコトになりました。
市役所の駐車場をお借りして、ステージやテントの設営
お天気が良くない。。。落雷!
開催当日早朝の測候所発表で 「警報」がでたら中止します。
そんな心苦しい決断を夜遅くまで設営準備している
メンバーに伝えると・・・悔し泣きする高井誠貴実行委員長の姿。
理事長は、あまりに冷たすぎるという者も・・・
私は、離れた場所で、ひっそりと涙をぬぐいました。
念ずれば花ひらく。小雨の中、無事に開催されました。
さらに、フォーライフレコード会社宣伝部の大学時代の友人に頼んで
全国で8会場しか計画していない
「伊勢正三と池田聡のジョイントコンサート」も加西で実現
メンバーはチケットを姫路の街頭で販売してくれました。
本当によく頑張ってくれました。

神戸では、ようやく、仮設住宅が準備され、
避難所から仮説に移られてから、
まるで嘘のように今までのコミュニティーがなくなっていく。
一人暮らしの高齢者はお米を買いに行くにも大変な状況
そこで「3ライス神戸(3キロのお米)」を
応援メッセージ付で募集、配布するコトにした。
緊急の連絡のために「ベルボックス(119への連絡)」などの
研究と実践を「神戸元気村」山田和尚氏とともに、協力しておこないました。
小川雅規次年度理事長もいつも同行してくれました。
あっという間の2年間でした。

今でも、行吉学園の被災者の代表の方から連絡いただきます。
現在は、「語り部」としてグループをつくられ、講演活動されています。
震災ボランティアの体験を通じて多くの方々と絆をつくることにもなりましたが・・・
失う辛さも経験しました。

当時の日本青年会議所会頭のお子様も震災で亡くなられているにも関わらず・・・
気丈にも、全国のメンバーに向けた救援の激励メッセージテープ。
当時、共に活動した青年会議所同志もその後
体調を崩し、亡くなった者。
震災以後の不況の中で、ご自身の事業をたたむ者も
でてきました。

今、このようにして、三食いただけ、普通に生活出来る事を
幸せと感じています。

人を支えるのは、やはり人です。
深い人との関わりこそ、
苦しくもあるが、それ以上に喜びが多いのです。
『人の縁』に気づき、それを活かす
人生を送りたいものです。  多くの無念の魂の為にも


この記事を書いたプロ

宮本博文

家族写真撮影のプロ

宮本博文(STUDIO栄光社)

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