2025年ジャパンモビリティーショー豊田章男氏の熱いメッセージ!日本の自動車産業の歴史と未来、そして「ジャパン プライド」について

濱田金男

濱田金男

テーマ:日本の未来を考える

2025年ジャパンモビリティーショーにおける豊田会長の発言内容について、日本の製造業の雄としての視点を中心に、包括的にご説明します。
豊田会長は、「センチュリー」のコンセプトカー公開に際し、この車が「日本を背負って生まれた」ものであると述べ、日本の自動車産業の歴史と未来、そして「ジャパン プライド」について熱いメッセージを語りました。

1. センチュリーに込められた日本の製造業の精神

豊田会長は、センチュリーの誕生をトヨタグループの創業者である豊田喜一郎氏の志と結びつけました。
• 喜一郎氏の志
喜一郎氏は1930年代、「日本人には自動車は作れない」と言われた時代に、トヨタという会社ではなく、「日本人の頭と腕で日本の自動車工業を作らねばならない」という志のもと、挑戦を始めました。

• 戦後の復興
終戦からわずか3ヶ月後の1945年11月、喜一郎氏は「民主主義自動車工業国家を建設し、平和日本の再建と世界文化に寄与したい」と述べ、自動車協議会(現在の日本自動車会議所の前身)を立ち上げました。平和な日常を取り戻すための産業報国の精神がこの言葉に込められています。

• センチュリー開発の理念
初代センチュリー(1963年開発開始)の担当者であった初代主査の中村健氏は、当時の「何の伝統も名声もないトヨタが世界に通用する最高峰の高級車など作れるわけがない」という声に対し、「同じでないこと」日本の伝統文化(江戸長金や西陣織など)の融合にこだわったのです。

• ジャパン プライド
豊田会長は、中村氏と小一郎氏(喜一郎氏の息子)の胸にあったのは、喜一郎氏が自動車協議会に込めた「平和日本への貢献」という思いだったのではないかと解釈し、「ジャパン プライド」を背負って生まれた車がセンチュリーであると強調しました。

2. 現代日本への提言とセンチュリーの必要性

豊田会長は、現在の日本が置かれている状況についても触れ、製造業の雄として、未来に向けたメッセージを送りました。
• 失われた活力
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた時代は過ぎ、「失われた30年」という言葉が定着する中で、日本が元気や活力を失い、世界の中での存在感をなくしてしまっているのではないか、と危機感を示しました。

• 日本の持つ力
終戦直後、中村氏が「ゼロなんかじゃない。これまで積み上げてきた日本の力、技があった。だから立ち上がれた」と怒ったエピソードを引き合いに出し、現在の日本には、世界に広がった自動車工業、物づくりの技能、美しい自然、食文化、おもてなしの心、漫画、アニメーション、音楽、スポーツなど、世界に発信できる魅力が溢れていると語りました。

• 今こそセンチュリーが必要
豊田会長は、「私は今こそセンチュリーが必要なのではないかと思う」と述べました。

• 次の100年を創る挑戦
センチュリーという名前が「明治100年」や豊田グループ創始者の誕生日に関連する由来を持ちつつも、豊田会長はこれを「次の100年を作る」という意味に受け止めているとしました。
また、センチュリーに刻まれた鳳凰のエンブレムは「世界が平和な時代にのみ姿を現す伝説の鳥」であり、センチュリーは単なる高級車ではなく、「世界の平和を心から願い、日本から次の100年を作る挑戦」であると定義しました。

3. センチュリーブランドの未来

豊田会長は、中村健氏の「同じでないこと(One of One)」という言葉を借りて、センチュリーブランドの今後のビジョンを語りました。

センチュリーは、トヨタ自動車のブランドの一つとしてではなく、「日本の心 ジャパン プライドを世界に発信していく」ブランドに育てていきたいと決意を表明しました。そして、聴衆に対し「ネクスト センチュリーにご期待ください」と締めくくりました。

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