知らないことさえ知らない
会議などの都合で、父の夕食の介助を妻にお願いする事があります。
すると、必ず、
「敏男は?」
と、妻に私のことを尋ねるそうです。
父にとって、早朝起きた時、デーサービスから帰った時、食事の時など、自宅で生活する時間には、必ず、私が側にいる事が当たり前になっています。
会話が多いわけではないのですが、「身体が重い。」「足が痛い」「頭がふらふらする」「お腹が減った。」などと訴えて来る時には、
「生きている証拠だよ。」
「辛い事に耐える事が、生きる事だから、うまく付き合うしかないね。仕方ないね。」
などと、答えます。
信仰心の強い父ですから、きっと伝わるのではないかと思いながら、会話をします。
父は、私とこんな関わりをしながら、安心な生活を送っているように思います。
改めて考えてみると、父だけでなく、私たちは「安心」が、基盤なって生きていると思いました。
安心して、住める家がある。
安心して、会話できる人が側にいる。
安心して、使えるお金がある。
安心して、使える時間がある。
安心して、使える物がある。
安心して、生活できる環境がある。
安心して、生活できるきまりがある。
安心して、生活できる情報が手に入る。 など
だから、安心して、生きていられる。
この安心の上に、ちょっと欲張って、よりよく生きたいと願ってしまうのが、私たちのように思います。
人、物、金、情報を自由に手にして、自分のエゴを満たそうとしているためにトラブルが生まれたり、葛藤したり、苦しんだり、争ったりしているように思います。
「すでに、安心して生かしてもらっているので、これでよし。」
と、考えると、欲は、出にくくなります。
あとは、
「この『生』をどのように役立てるか。」
の回答を用意する事になります。
少なくとも、父が生きるために、私の存在そのものが役に立っていると思っています。
「人に『安心』を与える存在」
これが、父だけでなく、人の役に立つことではないかと思いました。
安心を得たいと思っている人のために安心を与えられる存在・・・
一体、私に何ができるだろう?
安心よりも、不安を与えていないだろうか?
「安心」の視点から、人とのつながりを見つめ直してみたいと思います。