動けない本人を強引に動かそうとするから長期化する
問題をはき違えてしまう末路
訪問支援(アウトリーチ)について述べてまいりました。
4回目の今回が最終です。
訪問支援がはたす役割、意味は何かを考えるためには、
そもそもひきこもりの支援に必要なことは何かが明確になって
いなければなりません。
私が関連図書の紹介を乞われた時にお薦めしているものに
『ひきこもりと家族トラウマ』があります。
著者は、多重人格研究の第一人者である服部雄一先生です。
https://mbp-japan.com/saitama/hikikomorijapan/
この書の内容は、当協会がこれまで行ってきた指導理念を
理論的に裏づけするような内容であり、現場から入ってきた経歴の私としては、
臨床家、研究家の立場の方からエールを送っていただいたような気がして、
とても心強く感じた本です。
一部抜粋させて頂きますと、
『ひきこもりを見る場合、日本人と外国人は目のつけどころが違います。
多くの日本人は「外に出ないこと」「働かないこと」だけを問題にして、
専門家も含めて、トラウマ性の症状-人間不信、対人恐怖、自殺願望、不眠、
感情マヒ-に目を向けません。
こうした症状を無視すると、ひきこもりは働きもせずに部屋でテレビゲーム
ばかりする怠け者に見えてきます。
これに対して外国人は、ひきこもりが何年も人を避けて 部屋に閉じこもったり、
自殺願望をもったり、人間不信や感情マヒの症状がある ことに注目します。』
(109P)
私はかねてより、不登校・ひきこもりの“問題”は何か?ということを
相談者の方に問いかけています。
つまり、学校に行っていないことや、ひきこもっている、その状態が
最優先で解決すべき問題なのかを、自問して頂いています。
「訪問支援の是非を問う①」でお話した名古屋の支援施設のテレビ放映に
関しても、この本の中でふれられており、海外専門家たちが絶句していることや、
「これは治療ではない。しかも親のためのものだ。本人のためのものではない」
(108P)といった言葉が記されています。
私がこの女性に強い憤りを感じたことは、やはり当たり前のことのようでした。
この名古屋のひきこもり支援施設「アイメンタルスクール」は
入塾生を死亡させた事件を起こした施設です。
こういう事件があると、「いったい何をしたいのかな?
親も含め、当事者たちをどうするつもりだろう?」と考えてしまいます。
問題をどこに置きたいのだろうかと思ってしまいます。
手段の目的化が事態を深刻化させる
『部屋(家)から出す。家族から離す。集団(社会)生活をさせる。
暴力(自他への)を止めさせる。働かせる。精神病院へ入れる。
根性(子も親も)を叩き直す』
こういったところが問題として扱われているような印象を受けます。
確かに表面的な課題としては、これらも有りますが、要は何故こうなったか。
それには必ず“訳”があるということです。
その“訳”を解消し、さらには、より良く生きていきたいという意識が生まれれば、
結果として上記のことがらは改善されているということです。
プロセスや手段を目的化してしまうと、本質的な解決から遠ざかります。
精神病理を原因にしたてたいといった動きも見られますが、
確かに一部病理性がある事例もあります。
であっても、薬を飲ませること、入院させることが目的となっては同じことです。
本人に病気を受容させ、治療への積極性を促し、さらには症状、障害を
かかえながらの生き方の充実(QOL)を模索させていくことが大切だと思います。
そのためには、病人と認めてもらっただけでは解決にはなりません。
何のために訪問をするのかが分かっていますか?
訪問支援の目的はなんでしょう。
訪問することが目的となっては意味がありません。
いきなり訪問して、声をかけたからといって何の解決にもなりません。
もちろん、本人の了解もないまま強引にドアを開けることは、
絶対にあってはならないことです。
私が訪問する場合は、最初の訪問は必ず日時を伝達します。
外出ができる青年の場合は、留守をされる場合があります。
それでいいんです。
こちらが招かれざる客ですから、本人のテリトリーへの訪問に対しては、
最低限の礼儀をつくすべきです。
そしてまた、本人の了解がない場合、絶対にドアを開けないことを約束し、
ドアノブにも手をかけません。
これらを徹底することで、当事者は安心してドアの向こうにいるようになります。
訪問支援の目的は、私の場合、当事者に自身のひきこもりが
わが家の問題だけではすまなくなってしまったと認識させる意味があります。
わが家の問題である内は、親も子もゆったりかまえてしまいます。
第三者が介入することで、社会を意識させることが出来るのです。
訪問を必要としない支援法の確立こそが必要
様々な自治体で、訪問支援事業が取り組まれようとしているようですが、
訪問に関して本人の強い拒否がないことが条件となっています。
斎藤環氏が懸念していたように、支援法が確立されていない現時点では、
それが賢明でしょう。
しかし、本人の強い拒否がない状態であれば、逆に訪問支援の必要はないと思います。
つまり、訪問をせずとも本人が動き出せる可能性が高いということです。
そもそも、訪問支援がどーしても必要なケースというのは、
むしろ本人が強く拒否するような場合とも言えます。
結論として、訪問支援(アウトリーチ)は、必要に迫られて行うべきもので、
安易に話し相手になるためといったような形で下準備(ここが重要)もないまま
行うことは避けるべきだと思っています。
訪問支援法の確立は、実は訪問支援をしなくてもいい方法の確立でもあるのです。
4回にわたって訪問支援に関して述べて参りましたが、如何でしょうか。
どうやって訪問すればいいかを考える前に、どうやったら訪問をしなくてもすむかを
是非考えてもらいたいものです。