秋葉原無差別殺傷事件から14年目の死刑執行
目 次
1. ストレスに対する脆弱さがどこからきているのか?
2. 日常、普段の生活の中で受けるダメージ
3. わが子の振る舞いに隠されたもの
4. 子どもたちが親に期待しているものは
ストレスに対する脆弱さがどこからきているのか?
不登校やひきこもりの相談を受けていますと、あらかた学校でのいじめや失敗体験、人間関係
のもつれなどが引き金となり閉じこもりだしたという話があります。ともすると、これらの
出来事が原因としてとらえられてしまいます。
しかし、これが本質的な原因である場合はほとんどないといっていいでしょう。
中には、前髪を自分でハサミで切り損なったのをきっかけに6年間ひきこもった子もいます。
もちろん原因は他にありました。
こうとらえてみてください。
500段の階段を一気に駆けあがり、頂上に着いてみたら10段ぐらいの跳び箱があり、
「これを跳んだら終了」と言われたら、さすがに跳べませんね。
いつもだったらなんでもない跳び箱でも、足がガクガク震えてぶつかって崩れ落ちてしまう
でしょう。
きっかけとなった出来事は、本来だったらつまづきの原因にもならなかったはずのことです。
それがその時には精神的に跳ね返せるだけの余力が無かったということです。
よく「そのくらいのことでなんだ!」と親や周囲の大人たちから出ることからも分かるでしょう。
ではなぜその時、それだけの抵抗力がなかったかを考えてみる必要があります。
それが先ほどの500段の階段です。
つまり、すでに相当のストレスをそれまでに抱えていたということです。自身の許容量を
はるかに上回るだけの心的ストレスを抱えていて、それがきっかけの出来事によってあふれ
出したというわけです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)もトラウマを受けた数年も後に突然発症する場合があると
言われています。
日常、普段の生活の中で受けるダメージ
では、許容量を超えるほどのストレス、トラウマがどの時期、どこにあったか。
それを知ることが回復の手助けをするためにも大切です。
多くが日常の、その子にとってはあたりまえの生活の中で受けた傷の場合です。
日常とは言っても、本人にとって決して軽々しいものではありません。
むしろ、深刻なダメージをあたえているものが多いのです。
しかし、慢性的なダメージは、本人すらその影響に気づけないでいる場合が少なくないのです。
不登校やひきこもりの理由を親が尋ねても答えないことが多いですが、その理由がここに
あります。
きっかけになる出来事の多くは、叱責や批判、排斥など自身を否定されるような場面です。
自己の存在をうとんじられる周囲からの言動などにより、こころの心棒がポッキリ折れて
しまうのです。
ですから、それまでにあったものは、自分を自覚できず、足元が揺らぎ、周囲からの自分に
向けられる評価に過度に怯えているといった状態です。
「居場所がない」と言いますが、自分がここに居る意味を見いだせずにいる状態なのです。
こういった状況で、先のような場面に遭遇するともろくも崩れ落ちます。
では、これまでにそういった背景をどこで作ってしまったのかを親御さんには考えていって
ほしいのです。
わが子の振る舞いに隠されたもの
当事者の青年たちの話を直接聞いていますと、色々気づかされ、考えさせられます。
家で暴言をはいたり、物を壊したり、中には暴力が出ている場合もありますが、意外に本音
では、自分をたしなめてほしいと思っていたりするものです。
ある青年が言いました。「お父さんから怒られるのを待っている自分がいます」と。
この青年も時おり壁に穴をあけたりしている青年です。
四苦八苦の一つに「求不得苦(ぐふとっく)」というものがあります。
これは「求めて得られざる苦悩」です。
私たちの行動は、全て何かの欲求につき動かされたものです。
そしてその欲求が満たされなかった時に嘆きや怒りなどの感情が起こります。
ですから、子どもたちが怒りの情動をあらわした時には、何を求め得られなかったのかを
考えてみてください。
子どもたちが親に期待しているものは
こういう事例も少なくありません。
社会の中で生きていくことに希望をもてずに、自暴自棄になり荒れているケースです。
こういった場合、昨今は決まって「ブラック企業」「非正規雇用」「所得格差」などが原因
といった論調が出てまいりますが、青年たちからの声を聞いておりますと、そういったこと
ではなくもっと身近な、肌で感じる間近なところに原因が隠れているようなのです。
何かと申しますと、「父親の疲れた姿を見ていると希望が見えない」
「母親のグチを聞いてると何が幸せかって悩んでしまう」というものがけっこう聞かれる
んです。生きていることを楽しんでいない親の姿、無目的にしか見えないその生き方を
見ていて、将来に希望をもてなくなってしまっているのです。
そう言われると「何を言ってるんだ、オマエたちのためにどれだけ頑張ってきたと思って
いるんだ」との親御さんたちの声が聞こえそうです。
母親のグチでよく聞かれるのが、「お母さんは子どものためだけに何でも我慢してきたのよ」
というものです。しかし、この献身は実はわが子のためにはあまりならないようです。
自己犠牲的な生きかたをする母親を子どもたちは望んではいません。
自分を生きてほしいんです。自分もそう生きたいから、見本を親に示してほしいんです。
生きていくことそのものを示していく
子どもたちは、両親の笑顔を見たがっています。
両親のイキイキした幸せそうな表情を期待しています。
両親の笑顔から、元気と安心を得たいと望んでいます。
残業や接待で疲れ果てている会社員の父親を見て育ち「会社員にだけはなりたくない」
と言っていたひきこもりの青年もいました。
「趣味があるじゃなし、仕事に生きがいをもってるじゃなし。何が楽しくて親父は生きて
いるんだろう」と。
私たち親は、「真の豊かさとは何か?」ということを真剣に考え、子どもたちに伝えて
いかなければならないようです。
私たちがイキイキと生きていれば、子どもたちに生命の尊さ、そしてその生命を自分らしく
活かしていくことを教えてあげられる気がします。