福岡の偉人:福岡市 論理で抗う大西巨人

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、北九州市出身の松本清張(まつもと せいちょう/1909年 ~1992年)
数多くの推理小説・歴史小説を著した、戦後日本を代表する小説家のお話です。
目次
名が後世に遺るということ
「名を後世に遺すことができる」って、どんな生き方なんだろう。
肩書きがある人?
華やかな舞台に立つ人?
ですが、松本清張の人生を知ると、そんなイメージが変わるのではないでしょうか。
学歴も、特別な環境もなかった松本清張。
文字の力だけで、世の中に影響を与えた存在でも知られています。
大きく目立つような、派手にパフォーマンスを駆使したような動きはありません。
ですが確かに残っています。
こうやって名を馳せた人の生い立ちに関心を持つことは自分の心を整える機会になる。
ただ聞いたことあるだけの存在から、自分を内省することにも。
本当に世の中は知らんことだらけ。
今日は、そんな小説家の人生を辿ります。
幼少期――寒さと移動の記憶から
松本清張が生まれたのは1909年。
福岡県小倉市(今の北九州市)とされています。
とはいえ、本人は「広島で生まれた」と語っています。
生い立ちがその理由。
父親の商売がうまくいかず、母とふたり、真冬の寒さの中を小倉へ移動。
出生届が出されたのは、その移動のあと。
最終学歴は小学校卒業。
中学には進めず、印刷所や新聞社で働きながら、独学で学び続けました。
「学歴がないからこそ、学び続けた」
そんな言葉が、松本清張を奮い立たせたのかもしれません。
文壇への道――遅咲きの花が根を張る
清張が文壇に登場したのは、戦後の混乱期。
1952年、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞します。
それは40代になってからのデビューでした。
遅咲きだけれど、その筆はまっすぐで、社会の矛盾や人間の業を描き出す。
「遅く始めても、続けていれば道は拓ける」
そんなことを、松本清張は教えてくれます。
社会派推理小説――謎の奥にある現実
『点と線』『砂の器』『ゼロの焦点』――
清張の推理小説は、ただの謎解きではありません。
犯罪の背景にある社会構造や、人の心の闇を描きました。
読者に「考えるきっかけ」を渡すような物語。
それが、社会派推理小説という新しいジャンルを生み出しました。
歴史小説――過去を現在に照らす
『昭和史発掘』『昭和史の謎を追う』など、清張は歴史にも深く向き合いました。
史実の裏にある人間の欲望や葛藤を描きながら、
過去を「今を問い直す鏡」として差し出します。
歴史は、ただの記録じゃない。
人の営みであり、今につながる問いでもある。
そんな視点が、松本清張の作品には宿っています。
地方のまなざし――北九州から見た社会
清張は、地方出身者として、地域の視点を大切にしました。
北九州を舞台にした作品も多く、地元の風景や人々の暮らしを丁寧に描いています。
「地方だからこそ見えるもの」が、普遍性を持つ物語になる。
その信念が、松本清張の筆を支えていたのかもしれません。
北九州は本当に面白くて。
独自の文化と商店やお店がまだまだ沢山残っている。
そして風景も建物も歴史を感じることができる。
そんなところが魅力です。
書くことは生きること――そして、名は残る
松本清張は、生涯で1000点以上の作品を残しました。
毎日欠かさず執筆し、自己管理も徹底していたそうです。
80歳を過ぎても原稿を書き続け、亡くなる直前まで「書くこと」をやめませんでした。
小説を書き続けた人生
では、松本清張はどうしてそうまでして「書き続けた」のか。
それは、「名を残したかった」のでしょうか?
松本清張自身は、文壇の権威や賞に執着することなく、「職業作家」としての誇りを持っていました。
名を求めたというより、「残るべきもの」を書き続けた人だったのかもしれません。
名を残すことより、
名が残るほどの仕事をすること。
その静かな誇りが、松本清張の背中にはあったように思います。
編集後記
松本清張は、目の前の仕事に誠実に向き合い続けた人でした。
何かを始めるときも、続けるときも、迷うときも。
その積み重ねが、気づけば多くの人の記憶に残るものになっていた。
清張の人生には、派手な言葉はありません。
ですが、何かしらの背中を押してくれる力があります。
その歩みを思い出すだけで、今日の自分にも、ちゃんと向き合っていることがあると気づける気がします。



