情報の本質を見抜く力:洞察力

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、林遠里(はやし えんり)1831年~1906年
福岡市早良区で福岡農法を考案した明治時代の老農という農業指導者のお話です。
日本の農業は、明治維新を境に大きな変革を迎えました。
そんな時代に革新を起こした人物の一人が 林遠里(はやし えんり) です。
林遠里は武士から農業改革者へと転身し、福岡農法を考案したことで知られています。
今回は、その生涯と功績に迫ります。
武士から農業へ—林遠里の転身
林遠里は1831年、福岡藩士の家に生まれました。
林遠里の家系は代々砲術を教えており、戊辰戦争にも従軍。
ですが、明治維新による 廃藩置県 を機に職を辞し、福岡県早良区重留村へ移住。そこで農業の道へ進むことを決意しました。
この決断が、日本の稲作に大きな影響を与えることになるのです。
農業改革への挑戦—勧農社と福岡農法
林遠里が提唱した 「寒水浸法」「土囲法」 は、稲作技術の改良に大きく貢献。
これらの方法は、収穫量を安定させ、より効率的な米作りを可能にしたのです。
また、明治10年(1877年)に『勧農新書』を刊行。
林遠里の農業理論を広く伝えました。
さらに 明治16年(1883年)には「勧農社」を設立。
実業教師を全国に派遣。農業指導を通じて、地域の発展にも貢献しました。
この活動が、現在も「福岡農法」や「筑前農法」として語り継がれています。
近代農学者との対立
林遠里の農法は、経験則を重視する伝統的な方法だったため、近代農学を学んだ農学者たちと対立したようです。
特に駒場農学校を卒業した若い農学士たちは、西洋農業の学理を重んじていたため、林遠里の技術を批判する動きもありました。
それでも、多くの農家は林遠里の農法を歓迎し、全国で広まることになりました。
林遠里の遺産—地域に根付く功績
福岡市早良区には、勧農社の跡地 が福岡市指定遺跡として保存されています。
また、地元の小学校の校歌には、林遠里の功績が歌い継がれているのです。
さらに、重留地区の夏祭りでは、地域の歴史を祝う行事として木組みの舞台や屋台が作られ、子どもからお年寄りまで楽しめるイベントが開催されています。
これは、林遠里の影響が今なお福岡の文化に息づいていることの証です。
…とはいえ、転勤族の家庭だったことで、実はこの辺に一度は住んだことがありました。
残念なことに、こうやって福岡の偉人伝を書き始めるまで、その存在を全く知らない自分に遭遇するわけです。
福岡に生まれ育っただけだったことに気が付く自分と向き合っています。
まとめ
林遠里は、武士から農業改革者へと転身し、独自の稲作技術を確立しました。
その農法は次第に全国へ広まり、日本の農業発展に大きな役割を果たしています。
現代においても、林遠里の功績は福岡の土地に根付き、地域文化の一部となっています。
福岡の歴史を知る上で、林遠里の功績を学ぶことは欠かせません。
ですが林遠里のように革新を恐れず、地域とともに歩む姿勢があったからこその功績。
今の時代にも大きな示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
この話を書きながらついつい思うこと。
知識ばかり得ても、人のために生かす機会がなければ、それは単なる自己満足なのです。
- 学んだことに縛られていないか?
- 学んだことが自分の解釈で歪んでしまってはいないか?
- 学んだことの多くを〝 正しい 〟と信じ込んでしまい、挑戦を止めてないか?
- 挑戦者を批判し、自分の考え方を押し付けてはいないか?
そんなことを考えずにはいられませんでした。
~資料出所~
https://www.nodai.ac.jp/teacher/100696/2009/3.html
https://tomoterasusawara.jp/event/659.html
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/06.html
https://fukucomi.city.fukuoka.lg.jp/news/548



