AIと働き方の変化:新たなキャリアパスの展望

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、津上 退助(つがみ たいすけ)1893年9月10日 - 1974年7月4日
日本の技術者で実業家。津上製作所(現・ツガミ)創業者のお話です。
今回は、いつになく難しかった…。
まとめが違うなぁと思われた場合は、ご連絡くださるとうれしいです。
夢を追い続けた技術者—津上退助の物語
夢を叶えることは簡単ではありません。
ですが、夢が叶わなかったとしても、新しい道を見つけることはできます。
津上退助の人生は、そのことを証明してくれるような生きざま。
軍人への憧れを断念せざるを得ませんでしたが、その挫折を乗り越え、日本の精密機械産業を築く立役者となりました。
そして、その道のりには、またまた出てくる三井物産。
福岡の発展には必ずと言っていいほどに関わり深く。
その深い関係も浮き彫りになりますね。
軍人への夢と、ものづくりの世界へ
津上退助は、福岡県糸島郡北崎村宮ノ浦(現・福岡市西区宮浦)に生まれています。
幼いころから船での交易が身近にある環境で育ち、きっと大きな世界へ憧れを抱いていたのではないでしょうか。
ですが、津上退助が憧れた「軍人」という道は、体格の問題で叶わず、新たな目標を模索することになります。
そこで進んだのは工業の世界。
精密機械に関心を持ち始めた津上退助は、1923年、東京でゲージブロックの国産化に成功します。
これは、機械製造の精度を左右する重要な技術であり、日本のものづくりの発展にとって欠かせないものでした。
三井物産との関係と経営方針の転換
津上退助が創業した津上製作所は、1930年代に精密測定機器分野で日本を代表する企業へと成長。
この時期、三井物産はその技術と将来性を高く評価し、1934~35年の大型増資によって津上製作所に対する持株比率を8割以上に拡大。
物産出身の重役も6名にのぼり、経営方針の決定に深く関与するようになりました。
ですが、急成長する企業にありがちな課題もありました。
生産・工程管理の未確立による納期管理の問題が指摘され、大阪砲兵工廠の注文管理が厳しくなるなど、商社とメーカーの間で調整が必要な場面も増えました。
経営方針の違いによる独立—新たな挑戦
1936年、創業者の津上退助は数十名の部下を連れて津上製作所を離れ、新潟県長岡市に新たな会社を設立します。
その背景には、軍需関連の生産に傾斜する三井物産の方針と、あくまで精密測定器具の製造を続けたい津上退助との対立があったようです。
海軍は魚雷やコンプレッサーの生産を求めましたが、津上退助はものづくりの根幹を支える技術にこだわり続けたのです。
商社とメーカーの関係が変化する中、津上退助は自らの信念を貫き、新潟で新たな道を切り開く決断を下しました。
この選択が、日本の精密機械産業のさらなる発展につながることになります。
まとめ:夢を追い続けることが未来をつくる
津上退助の人生は、「最初に選んだ道がすべてではない」ということを教えてくれます。
軍人の夢が叶わなくても、日本の精密機械の未来に貢献するという新たな使命を見つけました。
さらに、三井物産との関係を経て、自らの信念を貫くために新天地へと進んだ津上退助の決断は、時代の変化を受け入れながらも夢を追い続ける姿勢を象徴しています。
津上退助の歩みは、今も多くの技術者たちに影響を与え、日本のものづくりの精神として受け継がれています。
私たちもまた、津上退助の歩みを知ることで、新たに辿る先が変われども未来は限りないと理解を深めることができる。
そう、自分の夢がどこかで形を変えたとしても、その先に広がる可能性を信じて進んでいくことで、本当に求めていたものをつかまえることができると証明していると感じています。
資料出所
https://the-shashi.com/tse/6101/
https://www.tsugami.co.jp/company/history/
https://www.sme-japan.org/library9.pdf
https://mitsui-bunko.or.jp/archives/recommend57/



