企業の永続的な成長には一人ひとりの自己肯定感が関わる

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、ブリジストン創業者の石橋正二郎(いしばし しょうじろう)1889年~1976年のお話です。
人生には、さまざまな選択があります。
どんな道を選ぶのか、どんな志を持つのか——それが、その人の生き方を形作ります。
石橋正二郎は、事業を通じて社会に貢献し、多くの人の暮らしを豊かにした人物。
ただ利益を追い求めるのではなく、働く人の幸せや地域の発展を心から願いながら歩んできました。
その足跡をたどることで、私たち自身の生き方を見つめ直すヒントがあるかもしれません。
家業を継ぐ決意——実業の道へ
1889年(明治22年)、福岡県久留米市に生まれた石橋正二郎。
子どもの頃は病弱でしたが、勉強では抜群の成績を収めていたそうです。
商業学校に進み、さらに上の学校へ進学することを夢見ていましたが、病床の父から家業を継ぐよう言われます。
進学を諦め、17歳で仕立物業「志まや」を兄とともに引き継ぐことになりました。
そこで、ただ家業を守るだけではなく、「全国に広がるような事業で、世の中の役に立ちたい」という志を持ち、実業家としての道を歩み始めます。
純国産タイヤへの挑戦
家業を足袋専門にし、働く人の待遇を改善するなど、新しい取り組みにチャレンジ。
「働くことには喜びが必要」という考えから、無給の徒弟制度を廃止。
有給制度を導入しています。
この取り決めと実現は当時としては画期的なことでした。
そして1928年(昭和3年)、39歳になった石橋正二郎は新たな挑戦を決意。
それが、自動車のタイヤを国産化することでした。
当時、日本国内の自動車のタイヤはほとんどが輸入品。
さらに、タイヤを作る技術は非常に難しく、周囲からも反対されました。
それでも、「日本の自動車産業の発展のために必要なことだ」と信じ、挑戦を続けます。
1930年(昭和5年)、ついに日本初の国産タイヤが誕生。
翌年にはブリヂストンタイヤ株式会社を設立。
その後20年ほどの努力を経て、ブリヂストンは国内業界のトップへと成長しています。
地域社会への貢献
知れば知るほど興味深いこと。
それは、石橋正二郎にとって、会社の成功は目的ではなく、社会への貢献の手段ということです。
久留米市の発展に心を寄せ、学校や公共施設など、多くの場所に支援を続けていることも地元では知られているほどの存在。
1928年(昭和3年)、久留米大学の前身である九州医学専門学校の校舎と土地を寄付。
その時、財政的な余裕があるわけではなかった。
それにもかかわらず、「久留米の未来のために、しっかりとした学校が必要だ」という思いで決断しています。
その後も、高等工業学校の開設資金、小学校や高校への施設提供など、地域の発展を願って支援を続けました。
長男の石橋幹一郎氏が語っていた言葉は
父は、文化支援という言葉を知らなかった。
ただ郷里のお役に立ちたいという気持ちだけで寄付を続けていた。
という語りが、石橋正二郎の心やその思いが伝わってきます。
夢の贈り物——石橋文化センター
終戦後の焼け野原となった久留米をみて「文化の息吹を取り戻したい」と考えた石橋正二郎。
その思いを形にしたのが、1956年(昭和31年)の石橋文化センターです。
美術館や体育館、公認プール、音楽堂など、市民のための施設が建設されました。
センターの正門の石壁には、石橋正二郎の筆跡でこう刻まれています。
「世の人々の楽しみと幸福の為に」
これは石橋正二郎の人生を表す言葉であり、今も久留米市民にとって大切な「宝」となっています。
まとめ——心豊かに生きるために
タイヤメーカー:ブリヂストンの創業者、石橋正二郎の人生から学べること。
単なる成功の秘訣ではなく、人としての在り方に関わる生きざまではないでしょうか。
1.困難に負けず、志を持つこと
進学を諦めても、事業を起こし、社会に貢献する道を切り開いたように、どんな状況でも前向きな志を持つこと。
2.人を大切にすること
働く人が誇りを持てる環境をつくり、地域の発展に貢献する。
そうした思いやりが、持続的な成長につながっている。
3.自分の成功を社会と分かち合うこと
企業の繁栄を地域の発展につなげ、文化を大切にする。
そのことで、社会全体の幸福につながることを自分の喜びにしていた。
「世の人々の楽しみと幸福の為に」
——この言葉のように、自分の知恵や努力を社会に還元し、誰かと共に生きること。
そのことが、知らず知らずのうちに、人生をより豊かなものに感じ、生きるとは何かをつかんでいくのかもしれません。



