スーパーシティ特区:国家戦略で進化する未来都市

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束です。
福岡県直方市。
この地は、明治時代の日本で人々の暮らしを一変させた発明家、和泉要助(1829年–1900年)の生誕地です。
和泉要助が生み出したモノは「人力車」
文明開化の象徴とも呼ばれ、近代の日本人にとって日常の足として欠かせない存在でした。
理想を形にした忍耐力
和泉要助が人力車の製作に着手したのは、明治3年(1870年)のこと。
当時、移動手段は限られており、人々の生活は不便なものでした。
そこで、和泉要助はその状況を変えたようです。
鈴木徳次郎や高山幸助と協力し、人力車を開発。
和泉要助らは、東京府に製造と営業の許可を得て、日本橋からその挑戦を始めています。
人力車は、たった一年で東京府下に1万輌以上普及するという驚異的な広がりを見せ、人々の暮らしを劇的に変化させました。
それは単なる乗り物ではなく、社会の発展を後押しする希望の象徴となったのです。
栄光の裏に潜む苦悩
和泉要助の功績は大きかったものの、その道は決して平坦ではありませんでした。
人力車の特許出願は、既に広く普及していたことを理由に却下。
和泉要助の発明は公式な保護を受けることができませんでした。
それでも和泉要助は諦めず、人力車の改良に努めています。
困難に立ち向かいながらも、内国勧業博覧会で龍紋賞を受賞するなど、和泉要助の技術への評価は続いていました。
とはいえ、和泉要助の名前は次第に世間から忘れられていきます。
人力車は成功を収めても、その背後にいる発明者が恩恵を得ることはなかったのです。
和泉要助が残した遺産
それでも、和泉要助の努力は無駄ではありませんでした。
特許制度の必要性を訴える議論が高まり、和泉要助のケースはその象徴として社会に影響を与えました。
そして明治30年代には、人力車の国内外での普及が進み、和泉要助への感謝を示すため一時金が下賜されることとなります。
直方市から始まったこの物語は、私たちに挑戦することの意義や、困難に直面しても諦めないことの重要性を教えてくれます。
そして和泉要助の人生は、未来の技術者や発明家にとって大きな励みとなり、私たちの心に勇気を与えてくれる存在ではないでしょうか。
こうやって福岡県を変えてきた方々これまでも沢山。
すぐに芽が出ずとも、時が追いかけてくることもあるなぁと歴史を振り返ることで学ぶものが多々。
そして大抵のことは、ご本人が死して手にするものの方が多い。
それは、感謝の気持ちが人を動かしたからこそ。
そのことで、正当な権利として世に訴えたいと思った人がいるからこそ、偉人として名を世に残すものかもしれません。
発明家といえば、福岡県久留米市の東芝の創業者の田中久重
からくり人形で名をはせ、久留米絣にもかかわっています。
過去のブログはこちらから
田中久重さんに学ぶ、一歩踏み出す力
https://mbp-japan.com/fukuoka/chi-hos/column/5183429/
驚くべき繋がり:久留米絣の創始者・井上伝さんと東芝の創業者・田中久重さん
https://mbp-japan.com/fukuoka/chi-hos/column/5183614/
和泉要助と田中久重は同じ発明家として何が違ったんだろう。
単なる時代の違いだけでしょうか?
それとも、家柄?人とのつながり?
いつも、こういった方々の資料を調べるたびに、その軌跡を辿りつつ感じることです。



