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今日は、福岡県飯塚市出身の伊藤伝右衛門氏(1861年~1947年)のお話です。
伊藤伝右衛門氏は明治から昭和時代にかけて、福岡県筑豊で活躍した実業家・炭鉱主です。
目次
生前は、炭鉱で巨万の富を築き大成功を収めたことから「炭鉱王」と称されていました。
経済的な状況で学ぶ機会が奪われていても判断力と行動力のお陰で実業家としてその名を残した。
そんな、実直で努力家の伊藤伝右衛門氏から学ぶことは多くありますね。
それでは、進めていきます。
幼少期:貧しさから始まった物語
伊藤伝右衛門氏は万延元年、福岡県飯塚市で貧しい家庭に生まれました。
父の行商を手伝い、川舟の船頭や猫堀り(小規模採炭)で家計を助けることにより、早くから家計を支えていたようです。
読み書きはできなかったものの、伊藤伝右衛門氏の卓越した記憶力と人を見抜く才能はすでにこの頃から発揮されていました。
炭鉱業界での急成長:伝右衛門氏の挑戦
1898年、牟田炭坑の開発に成功。
伊藤伝右衛門氏は一躍炭鉱王としての地位を築き上げました。
無学ながらも、伊藤伝右衛門氏の素朴で率直な態度や努力家としての姿勢は、多くの人々に信頼される要因となっています。
教育と社会貢献のリーダーシップ
大正時代には教育事業に出資。
コメ騒動では多額の寄付。
常に地域と共に生き、社会に還元することに努めています。
また、嘉穂郡立技芸女学校(現・福岡県立嘉穂東高校)の創設や奨学金制度を通じて、多くの学生を支援。
地域社会の守護者:インフラ整備に尽力
伊藤伝右衛門氏は、遠賀川の治水事業に尽力し、地域のインフラ整備にも大きな貢献を果たしました。
同じく炭坑主の麻生太吉氏らと共に遠賀川改修期成同盟を結成。
政府に働きかけた結果、10年計画での改修事業が実現。
地域の安全と発展に寄与しています。
この取り組みは、地域のインフラを大幅に改善し、住民の生活を向上させるものでした。
麻生太吉氏との関係は炭鉱つながり。
下記のブログにアップしています。
麻生太吉氏:地域の英雄、筑豊と九州を救った男
文化人としての多彩な側面
伊藤伝右衛門氏は茶道や能楽に深い関心を持ち、文化人としての趣向や嗜みを深めました。
邸宅には茶室が設けられ、美意識と文化への深い理解を示しています。
また、建築美術への関心も持ち、旧伊藤伝右衛門氏邸にはアールヌーヴォー調のマントルピースやイギリス製のステンドグラスが取り入れられ、美意識と文化への深い理解を示しています。
家族との絆と柳原白蓮(あき子)との波乱の結婚生活
1910年、貧しい時代から苦楽をともにしてきた糟糠の妻ハルと死別。
その後、柳原前光伯爵の娘、柳原白蓮嬢(あき子)と再婚しました。
大正三美人と歌われていた伯爵令嬢との結婚は世間の注目の的になるほど。
ですが、伊藤伝右衛門氏は50歳、柳原白蓮嬢は当時26歳。
二人の間には年齢差もあり、社会的な出身の違いも大きな話題となりました。
男の度量:駆け落ち事件後の伝右衛門氏
後に柳原白蓮嬢が駆け落ちする事件が起きました。
その騒動は新聞記事に取り上げられ全国に知れ渡り、今でも伝えられているほどの騒動に発展。
駆け落ち事件後、伊藤伝右衛門氏は「一度は惚れた女だから」として一切の非難や弁明をせず、一族や周囲の反対を押し切って彼女を許しています。
福岡にひっそりとあった「あかがね御殿」
伊藤伝右衛門氏が再婚相手の柳原白蓮嬢のために建てた福岡の豪壮な邸。
この邸宅は屋根が銅で葺かれており、「あかがね御殿」と呼ばれました。
柳原白蓮嬢のために建てられた御殿は福岡市天神にありました。
今は、再開発で取り壊されて見ることはできなくなってしまっています。
伝右衛門氏の柳原白蓮嬢への愛情と、彼女にふさわしい生活を提供するための努力は、この「あかがね御殿」に象徴されています。
伊藤伝右衛門氏の寛大さと、柳原白蓮嬢への配慮がうかがえます。
御縁があって長きにわたり仕事をしていたので、この記事を書きながら建物が思い出されます。
銅御殿:10年を超える登壇の想い出
金融界と政界への進出:多彩な才能を発揮
炭鉱事業の成功に留まらず、伊藤伝右衛門氏は銀行経営や衆議院議員としても活躍。
嘉穂銀行の取締役に就き、多くの情報を集め、衆議院議員として地域社会への貢献を続けました。
この嘉穂銀行は、昭和20年に筑邦銀行、福岡貯蓄銀行、十七銀行と合併し、現在の福岡銀行となりました。
まとめ:多面的な魅力と偉大な功績
伊藤伝右衛門氏の人生は、貧しい環境から成り上がりました。
炭鉱事業家、銀行経営者、衆議院議員として多くの人々に信頼される成功者です。
また、今求められている社会貢献や文化活動への取り組み。
家族に対する寛大さは多くの人々に感銘を与え続けています。
伊藤伝右衛門氏の生き方は、現代においても魅力的な人柄が伝わります。



