生成AIが変える未来の仕事:進化する労働市場への適応

今回は、ダニエル・建・イノウエ氏(1924年9月7日 - 2012年12月17日)のお話。
日本名は井上建氏。
祖父と父は福岡県八女市上陽町、母親は広島県出身の両親を持つ日系人です。
日系2世として両文化を尊重しながら成長し、戦場では右腕を失いながらも勇敢に戦い、名誉勲章を受けた英雄です。
ダニエル・建・イノウエ氏は議員として日系人の地位向上と日米親善に尽力。
文化の架け橋としても多大な貢献をしました。
彼の生涯と功績は、私たちに多くのことを教えてくれます。
出自と幼少期:ダニエル・建・イノウエ氏のルーツ
曾祖父は福岡県八女郡横山村(現・八女市上横山)の出身。
諸事情があり家族揃って1899年にハワイへ移住しています。
その時、父の兵太郎氏は3歳だったそうです。
後に父の兵太郎氏は、広島県出身の両親を持つ日系人の母のかめ氏と出会い結婚。
1924年、二人の間に生まれた子どもが、ダニエル・建・イノウエ氏です。
ダニエル・建・イノウエ氏はハワイのホノルルで生まれました。
祖父の教えは長男としての使命、そして義務と名誉
小さいころから祖父に長男としての使命を決して忘れないようにと厳しく教え込まれたダニエル・建・イノウエ氏。
合わせて日本の歴史と文化も教え、 日本語の 「義務」と「名誉」という言葉も教えられていたようです。
祖父はダニエル・建・イノウエ氏に、故郷は福岡県八女郡横山村であることを言い聞かせ、いずれは故郷で家督を継がせることが夢。
ですが祖父の願いは叶いませんでした。
そのような教えの中で、日系2世として育ったダニエル・建・イノウエ氏。
日本とアメリカの両文化を尊重しながら成長。
この背景がダニエル・建・イノウエ氏の一生にわたる使命感を育んだのではないでしょうか。
戦争の英雄
時は流れ、「第二次世界大戦」に突入します。
その時、ダニエル・建・イノウエ氏は大学生。
ハワイが戦争の舞台となります。
パールハーバー攻撃。真珠湾を日本が攻撃。
これを機に、ハワイでは日系人への差別が拡大します。
日系人の「検挙」や「強制収容」が行われていました。
偏見に打ち勝った名誉の勲章
米国への忠誠心を示すために陸軍に志願。
ダニエル・建・イノウエ氏は日系人部隊である第442連隊に配属され、欧州戦線で戦いました。
イタリアでドイツ軍の攻撃により右腕を失いながらも、左手で手榴弾を拾い、敵に投げるという驚異的な行動をしています。
その勇敢さから名誉勲章が授与。
ダニエル・建・イノウエ氏が突き進んだ背景には、収容所にいる日系人同胞への思いや解放への願い、そして日系米国人としての名誉と誇りが、戦果の中でも後押しをしていたようです。
議員としての活躍:日系人初の米国連邦議員
戦後、ダニエル・建・イノウエ氏は議員の道を歩み始めました。
1959年には日系人初の米連邦下院議員に当選。
日系人初のアメリカ議員となったダニエル・建・イノウエ氏。
その後、1962年からは上院議員を9期連続で務めています。
ここからハワイへの貢献がはじまります。
故郷に単身で帰国する
1959年には日系人初の米連邦下院議員に当選した同年に、ダニエル・建・イノウエ氏は祖父や父の長年の願いだった故郷へ訪問しています。
その際、祖父や父から故郷に帰るとき
決して一家の名を汚すようなことはしてはならない
と言い聞かされていたようです。
故郷を訪れること、故郷を知ることの大切さを下記のように語っています。
先祖に誇りを持つことは健全な自尊心の高揚につながると信じる。
自分自身対するプライドは人格形成にお いて大変重要な要素だ。
※ 広報八女より
現在のハワイを作り上げた
ダニエル・建・イノウエ氏が政治家になった後、ハワイはアメリカ50番目の州になります。
当時のハワイは偏見が残り、弱い立場のまま。
そのなか、数々の委員会でも議長を務め、キャリアを積み上げたダニエル・建・イノウエ氏。
ハワイの予算獲得・法整備・人権向上など、ハワイを盛り立てていきました。
その後、当時のハワイや日系人への偏見に対して、アメリカ政府からの謝罪を引き出すことも。
ハワイが「州」となって以来、いまのハワイを作り上げた人物となります。
最終は大統領継承順位第3位の重要な役職
1963年から50年近くにわたって上院議員として活動。
上院民主党の重鎮議員となりました。
2010年6月28日に最古参の議員であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、これに伴い上院仮議長に選出。
上院仮議長という名誉職は、大統領継承順位第3位の重要な役職です。
1980年代の日米間の貿易摩擦の際には、日本製品の米国向け輸出超過に対し厳しい対日批判を繰り返しました。
また、日米安全保障条約についても「米国に守ってもらうだけでなく、応分の対応も必要だ」と一貫して主張。
ダニエル・建・イノウエ氏の主張は、日米関係が片務的な関係ではなく、双方が負担を分かち合い、利益を享受しあう双務的な関係であるべきだというものでした。
文化の架け橋:日米親善の推進者
ダニエル・建・イノウエ氏は、日系2世としての自身の経験を生かし、文化の架け橋としての役割を果たしました。
それは、日本とアメリカの双方の文化を深く理解しているからできたことではないでしょうか。
最後の最後まで、両国の友好関係を築くために尽力しました。
アメリカで生まれて育った日本人
ダニエル・建・イノウエ氏の人生は、異なる文化が共存。
互いに理解し合うことの重要性を示しています。
日本生の日本育ちの方は、そのような立場のことを考えてみてください。
外見は日本人、生まれも育ちもアメリカ人。
どちらの国にも自分の拠り所を感じられなかった時期もあるのではないでしょうか?
だからこそ、議員として活動する中で、日系アメリカ人の地位向上に努めたことは、日米間の文化的理解を深める一助となりました。
さらに、ダニエル・建・イノウエ氏の働きかけにより、日米両国の交流が活発になり、両国民が互いの文化を尊重し合う環境が整っていきました。
ホノルル国際空港とイージス艦
ダニエル・建・イノウエ氏の功績を称えて、2017年にホノルル国際空港は「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に改称されています。
また、新鋭イージス艦にも「ダニエル・イノウエ」という名前が付けられました。
ダニエル・イノウエ・ミュージアム
祖父と父親の故郷、福岡県八女市では、ダニエル・建・イノウエ氏の功績を紹介する「ダニエル・イノウエ・ミュージアム」があります。
地域食材とハワイアンフードを融合したメニューを提供するカフェや特産品を販売しています。
ダニエル・建・イノウエ氏の遺産:未来への影響
ダニエル・建・イノウエ氏の生涯を通じて、勇敢な行動と不屈の精神は日米両国の友好関係を築く懸け橋となりました。
その功績と精神は、今後も多くの人々に影響を与え続け、誇りと使命感は、私たちに多くのことを教えてくれます。
偏見と人種差別を超えての関係構築
日系米国人としての誇りを胸に、未来を見据えた行動と理念を持ち続けるのは並大抵のことではありません。
外見は日本人でも、言語は英語であり、馴染もアメリカ。
それなのに、どちらにいても偏見による差別はなくしようがないことも事実。
そんな生き方を貫いたダニエル・建・イノウエ氏の人生。
海外に拠点を移す際には決して避けられない人種差別と向き合う未来も遠くない。
そのことを心に、これからも多くの人々にとっての指針となるのではないでしょうか。



