「あなたのため」という言葉の心理:ちょっと怖い深堀り

今回のお話は麻生太吉氏(1857年~1933年)
九州の地で生まれ育ち、炭鉱業から始まり多岐にわたる事業を展開した偉大な実業家です。
第92代内閣総理大臣 麻生太郎氏の曾祖父に当たります。
目次
その行動は現代のスケールが大きな社会起業家。
「自分のことはさておき、地域全体が第一」という信念が行動指針。
得た利益をすべて地域社会のために投資しています。
麻生太吉氏の精神と行動力は、現代の私たちにも多くの教訓を与えてくれます。
その生涯から、私的流用が際立つ現代の経営者との違いを書いていきます。
筑豊の礎を築いた麻生太吉氏とは
麻生太吉氏(あそう たきち、1857年8月26日 - 1933年12月8日)は、地域を愛し、その発展に全力を尽くした偉大な炭鉱業者、実業家、政治家。
第92代内閣総理大臣麻生太郎氏の曾祖父でもある麻生太吉氏は、麻生商店(現麻生グループ)を創業。
筑豊と九州全体の発展に大きな影響を与えました。
経済発展の立役者:麻生太吉氏の挑戦と成功
九州のとある村の庄屋の子として生まれた麻生太吉氏は、1872年に父とともに目尾御用炭山で石炭採掘事業を開始。
当時、炭鉱利用はまだ始まったばかり。
炭鉱採掘は「山師の仕事」と思われていました。
村からは「大庄屋の息子が山師になりよった!」と囁かれることもあったようです。
ですが、麻生太吉氏はそれを乗り越えて成功を収めました。
開発した炭鉱を三菱に譲渡し、その売却金を元手に別の炭鉱を開発。
類を見ない炭鉱火災に見舞われる
麻生太吉氏の事業は順調だったわけでは有りません。
中でも、類を見ない48000坪の大規模な坑内火災に見舞われ、4年間を消火活動に費やすることに。
その間、経営は厳しく坑夫への支払も四苦八苦。
晩飯は食ったが、明日の米はどうしよう。
その算段に走り廻るという状態にまでのどん底に。
そんな時でも麻生太吉氏は
そんなケチな考えじゃダメだ。
困難に出合うとすぐヘコたれる。
逆境の時だからこそ、食べるものもうんと食べて、力を出して働かなくちゃあ
※麻生百年史より
と、投げること無く真正面から体当たり状態。
その間、麻生家の屋台骨が揺らいでいることは充分承知のこと。
むしろ他の人たちより真剣に考え悩んでいた。
ですが、ただ上に立つ自分まで泣き言を言ったのでは下の動揺は計りしれない。
空元気ではないが歯を食いしばって頑張っていたと日記には記されていたようです。
救世主現る
その後、坑内火災と労苦の中で四年間余も闘い通し鎮火させたことは、九州炭業界に知れわたり噂も広まっていくことに。
そこで、旧縁の仲間の助太刀から、三井財閥の團琢磨氏とつながり、売却することができたようです。
その後も、住友などの財閥に山を売却しています。
三井財閥の総帥に上り詰めた團琢磨氏について下記にざっくりとまとめています。
團琢磨氏:福岡の発展と日本の近代化を支えた偉人
地域を活性化させる取り組みを始める
今までにも太吉は、かつて不況で身動きがとれなかった時、三菱に鯰田坑を売る。
また断層にぶち当たり、困窮の瀬戸際に住友が現れ忠隈坑を譲渡している。
まさに強運に恵まれていると言わざるを得ない。
ですが、単に運が強いというのではありません。
その背景にはいつも真剣勝負の悪戦苦闘。
ガンとして意志をまげぬ不屈の精神があったようです。
團琢磨氏の残した言葉を思い出します。
まず自己の使命を自覚し、そして堅固不動の自活的精神をもって事にあたるならば、天は自ら助くる者を助くるということを、もとより疑いのないことです。
この言葉に当てはまる生き方だなよなぁと思ってしまいました。
得たお金で発電所、鉄道、銀行、病院、学校を設立。
流通に問題があると見るや、道路ごと作ってしまうという豪快さ。
地域の発展に貢献しています。
黒から白へ:麻生太吉氏のセメント事業革新
大正8年(1919年)、麻生太吉氏は石炭事業から手を引き、セメント事業への転換を図りました。
石炭の黒から、セメントの白へ
「黒白革命」をスローガンに、新事業に取っています。
当時はセメント事業はさほど需要がなく、周囲は首をかしげていました。
ですがこれも見事に大成功。
麻生太吉氏はセメントグループ会社を設立しました。
そのころ、石油の登場により石炭は衰退しています。
地域を変えた政治家:麻生太吉氏のリーダーシップ
麻生太吉氏は炭鉱業界だけでなく、政治の世界でも大きな影響力を持ちました。
1899年から1902年まで立岩村外四ヶ村村会議員を務め、1911年から1925年まで衆議院議員として活動。
麻生太吉氏は地域の発展と住民の生活向上を目指し、さまざまな政策提言やインフラ整備に尽力。
特に遠賀川の治水事業においては、他の炭鉱王と共に遠賀川改修期成同盟を設立し、政府に対して治水事業の必要性を訴えています。
この活動により、遠賀川の改修事業が実施され、地域の安全と発展に大きく寄与しました。
未来への投資:麻生太吉氏の社会貢献活動
麻生太吉氏は地域社会への貢献にも積極的でした。
教育支援や医療福祉の充実に力を入れ麻生塾を設立。
多くの若者に高等教育の機会を提供。
また、麻生太吉氏は地域住民の健康と福祉を第一に考え、飯塚病院の設立と運営に尽力。
1918年に「郡民のために良医を招き、治療投薬の万全を図らんとする」という精神のもと地域医療の中心として機能しています。
現代社会に息づく麻生太吉氏の遺産
麻生太吉氏の功績は現在の筑豊地方の基盤を築き上げたものであり、今なお評価されています。
経済的成功、政治的影響力、そして社会貢献活動は、地域の発展と住民の生活向上に大きな影響を与え、現代にも受け継がれています。
時代を超えて学ぶ:麻生太吉氏の社会貢献事業
現代の経営者と麻生太吉氏を比較すると、いくつかの違いが浮き彫りになります。
麻生太吉氏は、経済的成功を地域社会の発展に還元することに強くコミット。
麻生太吉氏の精神の拠り所は「自分のことはさておき、地域全体が第一」というもの。
稼いだお金を贅沢に使うのではなく、地域のために使うことを重視。
現代の経営者も社会貢献活動を行っていますが、麻生太吉氏のように地域全体の発展を最優先する姿勢は特筆すべき点です。
麻生太吉氏の精神と行動力は昔からあるもの。
そして、現代の経営者に求められている才覚です。
会社とは地域経済を発展させていく役割を担う
地域全体の発展を最優先し、豪快な行動力を持つ麻生太吉氏の姿勢。
遠い未来が見えているのか、目先のことに注視しているのか。
悪戦苦闘のもがき方もスケールが違いすぎて。
私たちが見習うべきものが多すぎて。
なんだか自分は小さいなぁと思うことが増えていきます。
とはいえ人生の選択はいつも2つしかありません。
やるか、やらないか・するか、しないかですね。
そして、後悔は「やらない・しない」の時だけに生涯ついてまわるのです。



