小倉の海で心をつなぐ灯台:岩松助左衛門さんの情熱と挑戦

鎌田千穂

鎌田千穂

テーマ:心のあり方のヒント

白洲灯台
今回のお話は小倉の偉人、岩松助左衛門さん。
時は江戸時代にさかのぼります。
人々のために尽くした人生を通して、心の在り方に目を向けてみましょう。

小倉沖は多くの船が難破する危険な海域として知られていました。
そこで、一人の男性が灯台を建てて航海の安全を守ろうと立ち上がっています。
その名も岩松助左衛門さん。
彼の情熱と洞察力、年齢を言い訳にできない生き方が心を揺さぶります。

小倉沖の危険な海域

重要な航路、響灘

小倉沖に広がる響灘は、江戸時代から非常に重要な航路。
筑前や肥前方面から瀬戸内海を経由して大阪や京都に至る航路として、また、日本海側からも北前船が数多く航行していました。
これにより、小倉沖は交通量が非常に多く、多くの船がこの海域を通過。

危険な自然条件

ですが、この海域は以下のように非常に厳しい自然条件にさらされていました

急潮の影響では、潮流が非常に速く、船の操縦が難しい。
季節風の影響では、季節風が強く吹き付けることで、海面が荒れる。
多数の暗礁が行く手を阻み、藍島の南西約1キロに位置する白洲の大暗礁(長さ140メートル、幅100メートル)など、浅瀬や岩礁が多く点在。

こうした厳しい自然条件のため、小倉沖では多くの船が難破。
とても多くの人命が失われていたことから、白洲の大暗礁は「海の難所」として船乗りたちから恐れられていたようです。

そこで響灘を安全に航行するためには経験豊富な船長と精密な航海技術が必要です。
とはいえ、とても多くの船が危険に晒されていた場所だったそうです。

灯台建設に尽力した岩松助左衛門さん

岩松助左衛門の生い立ち

岩松助左衛門さんは1804年、豊前国企救郡長浜浦(現在の北九州市小倉北区長浜町)で生まれ、18歳で長浜浦の庄屋となりました。

ちょっと余談:庄屋ってなに?
百姓という農民の中で一段高い階層に属しています。
そして、村の代表者として村政全般を取り扱います。
また、領主の指示・命令を村人に伝え、年貢の取り立てや戸籍事務、村人の嘆願なども取りまとめます。
庄屋は、村内で社会的・経済的に優位な者が就任し、子々孫々受け継ぐことが一般的。

岩松助左衛門さんは、その役割を18歳で引き受けたのです。
こういった話を書いていると、現代の人育てのやり方に強い疑問を持ってしまいます。

以後40年間庄屋を務め、その功績と経験が認められ「小倉領海上御用掛難破船支配役」という役職を命ぜられました。

洞察力と決断力

岩松助左衛門さんは小倉沖の状況を分析し、白洲灯台の建設の必要性を考えます。

それもそのはず、難破船の救助を数多く経験してきた岩松助左衛門さん。
多くの命が失われる現実を目の当たりにし、海上の安全を確保することが自分の使命であると感じたのかもしれません。

その経験から培われた洞察力と決断力は、現代に受け継がれている地域の安全に大きく寄与しています。

人命救助への強い信念

岩松助左衛門さんは、人命救助を最優先に考えていたとされています。
その行動の一つに、自分の財産や労力を惜しむことなく、人々の安全を守るために尽力するものに費やしています。
この強い信念こそが、白洲灯台の建設という困難なプロジェクトに駆り立てたようです。

白洲灯台建設の苦労

難破船支配役としての奮闘

庄屋の頃から難破船の救助を数多く経験してきた岩松助左衛門さんは、小倉藩に白洲灯籠台築立願を提出。
ですが、建設のための資金はありませんでした。

そこで岩松助左衛門さんは、私財を投じ、不足分を募金や借金で賄うことに。

その間、難破船を救助する仕事が無くなると反対する者や不正を働く者。
妻や子の死など、人生を試されているかのような幾多の困難に苦しんでいます。
そしてついに基礎築立の竣工を迎えることができています。

挫折と復活

ですが、岩松助左衛門さんの努力は一度は長州藩の敗北によって許可が失効。
さらに再び許可を求め、幾度もの挫折を経ても行動をやめなかった。
最終的に政府により灯台建設が引き継がれました。

諦めない精神

岩松助左衛門さんの物語は、諦めないことの大切さを教えてくれます。
数々の困難や挫折に直面しながらも、灯台建設という大きな夢を諦めずに追い続けました。
その情熱と信念が、今日でも多くの人々の命を守り続ける灯台という形で実を結んでいます。

灯台の完成とその後

病と最期

岩松助左衛門さんの進めてきた工事は明治政府に引き継がれ、明治5年(1872年)に白洲での建設工事が始まりました。

ですが、岩松助左衛門さんは、実際の灯台点灯を見ることなく同年4月25日に死去。
岩松助左衛門さんが作った旧施設は政府に買い上げられ、明治6(1873)年に白洲灯台は正式に完成しました。

たった1人が見えていた白洲灯台の姿

岩松助左衛門さんだけが見えていた白洲灯台の姿。
沢山の方に白洲灯台の姿を語り合い、想いを分かち、同じ姿を見せていたからこそ、亡くなった後に完成できた。

多くの人の心を動かすのは「お願いする」だけで、叶えられるものではありません。
人の心に、より良い共通の認識を持つ姿をプレゼンできた、本物のプレゼンターだったからこそできたこと。

そして、その動機は「善」でしかありません。

白洲灯台の現在

通常は近づく事さえ難しく、立ち入りには海上保安庁の許可が必要な白洲灯台。
一般公開は年に一度ある清掃活動の日。
有志のみが訪れることができるだけです。

その後、昭和38年に岩松助左衛門さんの功績を後世の市民に伝えるため、小倉城に岩松助左衛門さんが設計した白州灯台を模した塔が建てられました。

本物は、現在も幾度かの改築を経て現存。
岩松助左衛門さんの信念と描いた白洲灯台。
現代も変わること無く小倉沖を航行する船の安全と多くの命を守り続けています。

まとめ:岩松助左衛門さんの人間力

岩松助左衛門さんの人生は、情熱と信念、そして人々への深い愛情に満ちていました。

彼の洞察力や決断力、人命救助への強い信念。
心の苦しさを分かち合い、想いを形にする未来を描いた。
数々の挫折にも負けず、折れても立て直し、願いを受け継ぐ姿勢。
そして、沢山の方と描いている未来を見せ、語り合ったからこそ実現できたこと。

底の浅い情報に振り回されて利用される現代。
私達が学び損なっている大切な人として在り方や生き方ではないでしょうか。

岩松助左衛門さんの遺志は、現代に至るまで多くの人々の命を守り続けている白洲灯台という形で実を結びました。

岩松助左衛門さんの人生を通じて、

人々のために尽くすとは何か?
お客さまとは何か?
会社とは何か?
仕事とは何か?
働くとは何か?
自分の感じる意義とは何か?

そんなことに思いを馳せる素晴らしい時間となりますように。

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鎌田千穂
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鎌田千穂(産業カウンセラー)

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組織課題を広い視野で捉え、主体性を持った思考と行動力、公私の均衡を図る自律型人材育成を行うこと。分析・統計による業務改善の解決策を示し、個人の悩みを解き放ち、企業の繁栄に繋げることが専門です。

鎌田千穂プロは九州朝日放送が厳正なる審査をした登録専門家です

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