自分の意志とは無関係に、動く選択肢しかない時が誰しもやってくる
買い物で食材のことを学んだ幼少期
祖母が生きていたころ、おはぎやお団子を良く作ってくれていました。
そのおはぎは、米粒の形が残り、あっさりとした甘さの中に塩味があり、お腹いっぱいに食べても、まだ食べたくなる素朴さがありました。
お団子にしてもそうで、祖母からお団子を作る際に、買い物に一緒に連れていかれ、緑の絵柄が書いてある米粉から作るお団子であれば美味しいけれど、それ以外の製造元の米粉は荒くざらつくから舌触りが悪いのだと、買い物かごに入れるときに、多くの事を教えてくれていました。
祖母も早くに亡くなりその味を忘れていたのですが、
鎌田の家に嫁いだ時、鎌田の祖母が作ってくれたおはぎやお団子は、同じ味がして懐かしく、自分も作りかたを習い、子供たちが小さなころは、一緒に騒ぎながら白い粉を顔につけて作って、その後は近所の子どもを呼んだりしておやつの時間を楽しみました。
便利さに慣れると手間をかけることが億劫になる
今はどうかというと、自分で作るには面倒くさい。
そして、市販のおはぎを買うこともあるのですが、日持ちがするように作られているせいか、悶絶するくらい甘すぎる上に独特のにおいがついていて臭くてまずいのです。
でも、お団子は簡単に作れるので作るのですが、あの頃のような味とは何だか違うのです。
もしかしたら、当時とは違う材料や製法に変わってしまっているのかもしれません。
インスタントを基準に考える子ども
そうはいっても私も教えたつもりになっていたことを気づかされたのは子どもたちの言葉です。
子どもたちが小さい頃、鯛の刺身でつくったお茶漬けを食べさせた時、
子どもたちが驚いたように、「永谷〇のお茶漬けの味がする!」と叫んだので、
「いやいや、永谷〇のお茶漬けは、鯛の刺身やお茶を準備する事が手間だと思う人向けに本物の味を忠実に再現しているだけで、本物はこっちだよ」と言いつつ、私はいったい何を子どもたちに教えていたのかなと、反省した記憶があるんです。
そういった便利なものに囲まれてしまうと、
子どもたちと関わる事で気がつく変化を知る機会がない方々は、本物の味を知らない世代ばかりになってしまっていることも気がつきにくいのではないでしょうか?
ちゃんと完熟した食材を食べていると、
上手いか不味いかわかります。
完熟していない食材のまずさや産地の偽装も加工されているものも、本来ならわかるのかもしれません。
今の世代は、食す楽しさや感動の観点が変わっているのだと食育の大切さを痛感しています。