東洋医学とは何か 9 -漢方の1つ按摩治療とは何か-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話5回目です。鍼治療を中心に話を進めます。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療について書きました。68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療について書きました。今回は、明治時代における鍼灸師誕生の話です。
鍼治療は、古来膿などを切開する外科治療として行われていました。太古の頃より日本で独自に行われていた医術に400年頃(古墳時代)朝鮮半島から中国で行われていた鍼治療や灸治療が齎されて日本と中国の医術が融合、701年(飛鳥時代)には『大宝律令』「医疾令」が制定され国家医療として用いられるようになり、「針師(はりし)」がそれを担いました。針博士(はりはかせ)丹波康頼が朝廷に医学書『医心方(いしんぽう)』(国宝)を献上した984年頃には、鍼灸治療は外科疾患だけではなく内科疾患にも用いられるようになっていました。医師は、薬草治療、鍼治療、灸治療、瘀血治療、按摩治療(骨折などに対する治療)、温泉治療や養生を含めた運動法を総合的に行っていましたが、薬草を中国や朝鮮から運ぶためには困難が伴っていたため、医師が行う薬草治療は一部の限られた人達にしか行われませんでした。国内の薬草を用いた治療(和漢薬と言われる)が生まれ、針師は様々な疾患に鍼治療と灸治療で対応しようとして新しい治療道具や手技を生み出しました。
安土桃山時代から、日本独自の鍼灸医術が誕生し、明確な日本化が始まりました。日本鍼術の方法は、中国伝来の撚鍼(ひねりばり)術、御薗意斉の打鍼(うちばり)術、杉山和一の管鍼(くだばり)術、が三大主流と考えられています。管鍼(くだばり)術を発明した杉山和一の鍼術をする時に用いる針管(しんかん)は、現在中国を始め世界中で用いられています。江戸時代末から明治初頭、患者に対する治療法は、西洋医術も加え、薬草治療、鍼治療、灸治療、瘀血治療、整骨治療(骨折などに対する治療)、あん摩治療、温泉治療や養生を含めた運動法を総合的に選択して行っていました。医療システムとしては、理想的な状態だったと言えます。同時に、本道(ほんどう・内科)と言われていた治療水準は、最高レベルにあったと考えられています。
明治時代になり、明治政府はドイツ医学を中心とした医学教育を決めました。同時に、本道(内科)は排除されました。日本の伝統医術は医療の本道・中心ではなくなり、その後「漢方」と言い換えられるようになりました。明治7年(1874年)に、日本初の医療制度である「医制」が出来ました。701年に出来た医官制度以来、わが国2度目の変革です。この制度は、医師を中心とした制度です。
医制を発令するにあたり、明治政府は、国内の開業医の状況把握を文部省に命じました。内治、産科、眼科、口中科の何医であるか、外科学を研究しているか等詳細な調査を求めています(1)。業務を引き継いだ内務省の「衛生局年報」には、明治初期の医師数が、
明治7年(1874年)総数 28262人 漢方医 23015人 洋方医 5247人
と書かれています。開業医の約8割は漢方医でした(2)。
文部省は、明治7年(1874年)8月18日に医制を発布し、明治8年(1875年)2月10日に、医師開業試験の実施及び開業免許事務手続きを示しました。同時に、従来から開業している医師は試験を受けずに開業出来る事としました。この取り扱いは、明治16年(1883年)12月まで願い出たものまで取り扱う事としました(3)。明治8年(1875年)7月25日に内務省衛生局から出された「内務省第1回年報1」には、医師の分類及び医師数が下記のように記されています。
明治8年(1875年)
試験免許25人 漢医14804人 洋医 5097人 漢洋医 2525人 和医 25人
和漢医 32人 和洋医 17人 流派不詳 744人 合計 23269人(4)
明治初期は、本道(漢方)が主流であるものの、西洋医学を取り入れて行っている医者は多かった事が分かります。新たに医術の開業を行おうとする者は、各県毎に行われる新規開業医師試験を受ける事になりました。明治16年(1883年)には、「医術開業試験規則」を制定して試験内容は、全国で統一されました。明治17年(1884年)1月1日に行われた第1回医術開業試験は、漢方に関する問題が出題されませんでした。その後、漢方医のための試験開設運動が繰り広げられ、漢方医に味方する議員らが帝国議会に医師免許規則改正案を出しましたが、明治28年(1895年)に否決され、漢方だけを学んで医師になる道は閉ざされました(5)。開業を願い出た漢医師、新規開業医師試験を受けて合格した漢医以外、漢方を中心とした医術を行う医者は減少の一途を辿りました。
明治7年(1874年)の医制第53条において、鍼灸治療を業とする者は、「鍼治灸治ヲ業トスル者ハ内外科医ノ差脚ヲ受ルニ非サレハ施術スヘカラス、若シ私ニ其術ヲ行ヒ或ハ方薬ヲ興フル者ハ其業ヲ禁シ科ノ軽重ニ応シテ処分アルヘシ」と規定されています。明治時代は、漢文にカタカナを付け加えている文章ですので、現代人には読みにくい書き方です。現代文に置き換えると、「鍼治療灸治療を営業する者は、内科医外科医の指示に従わなければ治療を行ってはいけない。仮に、秘かに治療を行うまたは薬を処方した者は、営業を禁じ診療内容の程度に応じて処罰するべきである」と解釈出来ます。鍼灸治療は医師または医師の指導を受けた鍼医・灸医が施術するように書かれた文言でしたが、明治8年(1875年)に改正された医制では、この文言が削除されていました。実質施行されなかった背景には、「医制」発布後従来の開業者は医師とされ診療が継続可能となったことが挙げられます。
明治17年(1884年)1月1日に、第1回医術開業試験が行われ、新教育における「医師」が正式に誕生しました。しかしながら、若い医師でかつ西洋医療が中心の病院に行く人がすぐに受け入れられることは困難であったと思われます。国民が従前から鍼灸治療を行っていた医者(鍼医・灸医)の受診を希望する人が後を絶たなかったことから、内務省は明治18年(1885年)3月25日に「鍼灸術営業差許方」を通達しました。「鍼灸術営業者の儀は従来開業者の者並びに新規開業せんとする者は自今出願せしめ 其の修業履歴を検し 相当と認むるときは差し許すこと苦しからず 其の取締方の儀は便宜相設くる可きと申し此の旨相達し候事」というお触れにより、医師免許を持たず鍼灸治療行っていた鍼医・灸医や新規に開業する者も、医師の指導を受けず、届け出をすれば施術を行えるようになりました。鍼灸治療は、国民の要望が後押しして、実質国家の医療として途絶えなかったと言えます。
明治44年(1911年)8月14日に「鍼術灸術営業取締規則」が制定され、届け出をしていた鍼医・灸医は、鍼灸師になりました(6)。同時に、「按摩術営業取締規則」が制定され、按摩師が誕生しました。鍼灸治療は、明治16年(1883年)までに届け出た(漢)医師、明治16年(1883年)までに新規開業医師試験を合格した(漢)医師、明治17年(1884年)以降医術開業試験に合格した医師の他、鍼灸師が担うことになりました。しかしながら、明治17年(1884年)以降医術開業試験に合格した医師は、鍼灸治療を業にはしなかったと考えられます。
ここで考えなければいけないことは、
1.漢医や整骨医は何故途絶えたのか
2.鍼灸治療は何故生き残ったのか
3.按摩治療は何故生き残ったのか
4.柔道整復治療は何故誕生したのか
ということです。4の柔道整復治療誕生には、嘉納治五郎という存在がありました。詳しくは「東洋医学とは何か63」をご覧ください。整骨医についても、詳しく書いています。3の按摩治療存続については、欧州から齎されたマッサージが、官立の盲唖学校で教育され、病院でも行われていたことが背景にあります。マッサージのことを「按摩」と言っていました。按摩術とは、従来行われていた「あん摩」と「マッサージ」を合わせた手技のことです。
1の漢医相続に関しては、相当な戦いがありました。歴史が長い分、西洋医学を主体にしようとした明治政府の決定に、相当強い反対があったことは言うまでもありません。それまで、本道(ほんどう)と言われた、薬草治療、鍼灸治療やあん摩治療を受けていた国民にとっても、大きな戸惑いがあったことでしょう。「治療闘争時代」と言われる漢洋の医術が争われていたこの頃の話は、短くまとめることが困難なので割愛します。ただ、明治28年(1895年)に、漢方だけを学んで医師になる道が閉ざされた背景には、漢医の指導的立場だった森立之(もりりっし)が明治18年、今村了庵(いまむらりょうあん)が明治23年に亡くなり、当初から活動を共にしていた若手の清川玄道が49歳で亡くなるなど、幹部が相次いで他界し、中心となる人が不在になったことが挙げられます(7)。医師国家試験に、漢方が全く出題されない時代は21世紀初めまで続きますから、この約100年ちょっとの期間は、医療界のみならず医学界においても大きな空白だったと考えられます。特に漢方薬の教育が全く途絶えたことは、国家の損失であったと思います。薬草治療は、欧米では、食品扱いですので、世界的に見ても、未発達の学問分野です。日本における医療現場でも、漢方薬の処方は、個々人の学習に依存している状況です。本道の中で、唯一途絶えた医療と言えます。医学部の中で漢方薬が教育されたのは、2000年になってからです。未だに十分な教育時間は設けられていません。明治初期の水準に戻るまでには、相当時間がかかるだろうと見ています。
では、鍼灸治療は何故生き残ったのか。キーポイントは、鍼灸の科学化です。
明治4年(1972年)に、明治政府は鍼灸を廃絶しようと動き始めていました。検校以下、盲官制度を廃絶し、当道座※の特権をはく奪しました(※当道座(とうどうざ)とは 中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織)。これにより、視覚障碍者の生活は困窮します。検校だった杉山和一(鍼管の発明者)の業績は、突如として消滅しました。明治政府の欧化論者に視覚障碍者の保護政策を継承する思考はなかったと言えます。一方、当時の欧米社会は、社会的弱者を救済する慈善事業を推進していました。明治10年代に西洋流の博愛主義者が盲唖学校を京都や東京で新設します。しかしながら、杉山流鍼治講習所で行われてきた鍼術灸術を教育対象から除外し、禁絶する動きがありました。この流れを変えるきっかけを作ったのは、奥村三策(おくむらさんさく)です。
鍼灸の効能は、西洋人の関心事でした。明治16年(1883年)に、オーストリアのシュライベル博士から鍼灸の功罪について、東京帝大に調査以来の照会がありました。その動向をいち早くキャッチしたのが全盲の鍼灸師奥村三策です。明治19年(1886年)12月に官立化した訓盲唖院(くんもうあいん)の鍼按術教員である奥村三策は、東京盲唖学校の校長に着任した矢田部良吉にお願いし、盲人鍼治の利害得失、危険性を問う質問状を、帝国医科大学(現東京大学医学部)に送付しました。受理したのが、初代学長となった三宅秀(やいず)(1848-1938)です。奥村は、その直後に三宅を訪問し、「鍼治採用意見書」を書いてもらうことを、お願いしました。三宅は、鍼灸に理解を示し、「金製、銀製の細い針を用いる流派なら視覚障碍者に修めさせても害はない」と結論付けました。
その際、時代の要請として、鍼灸を実験科学的に研究することが不可欠でした。奥村は、三宅秀の娘婿であり東京帝国大学医学部に在籍していた三浦勤之助と共同研究者になり、明治39年(1906年)に第2回日本総合医学会(日本医学会)で「鍼治について」という研究発表を行いました。奥村の鍼灸存続運動は、三宅、三浦という東京帝大の医学者による支援を取りつけたことにより、実を結びました。明治44年に医師の和田啓十郎が著わした漢方復興の書『医界之鉄椎』が追い風になり、同年「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」が発令されました。鍼術灸術営業者(鍼灸師のこと)と按摩術営業者(按摩師のこと)の誕生には、奥村三策の影響が大きかったと言えます(8)。
次回は、同時期における中国の話を予定しています。
(つづく)
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
参考文献
(1)文部省布達第八十九号p.186‐187.明治6年6月19日.https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797570
(2)厚生医務局.〔医制百年史付録〕衛生統計からみた医制百年の歩み.東京:ぎょうせい:1976.P.44‐45
(3)厚生省五十年史編集委員会.厚生省五十年史(記述篇).東京:中央法規出版:1988.p.134
(4)坂井達雄編,澤井直.医学教育の歴史 古今と東西.東京:法政大学出版局:2019.p.403‐404
(5)酒井シヅ.日本の医療史.東京:東京書籍:1982.p.420‐424
(6)厚生省五十年史編集委員会.厚生省五十年史(記述篇).東京:中央法規出版:1988.p.162‐163
(7)酒井シヅ.日本の医療史.東京:東京書籍:1982.p.420‐424
(8)武田時昌.鍼灸パラダイム談義~東アジア伝統医学の想像力~第65回.医道の日本.東京:医道の日本社:2016. Vol.75. No.7 p150-151
令和3年(2021年)7月20日(火)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在75年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。