リファスタ|かの有名な王冠ダイヤは戦利品⇒略奪品

杉兼太朗

杉兼太朗

テーマ:ダイヤ相場

リファスタです。今回は、イギリス王室の王冠に輝くコ・イ・ヌールとカリナンが、どのような経緯でイギリスの手に渡ったのかを、条約の条文と公式記録からまとめます。

この記事を読むと、2度のシク戦争とラホール条約第3条、ボーア戦争と強制収容所、ダイヤ鉱床ごと併合されたキンバリー、そしてイギリス自身が「略奪」という言葉でこの歴史を検証し始めている現在が分かります。

結論からお伝えします。王冠のダイヤモンドは、贈り物ではなく、征服の戦利品として渡りました。コ・イ・ヌールは、戦争で国を併合された10歳から11歳の少年王に、条約で「引き渡させた」もの。カリナンは、民間人が数万人死んだ戦争のわずか3年後に、征服された側が「忠誠の証」として献上したものです。これは反英感情の話ではありません。イギリスの歴史家・新聞・議会自身が検証している歴史です。そして、この歴史を知っておくことは、ダイヤモンドを扱う私たち買取の仕事の前提でもあります。

■コ・イ・ヌール──10歳の少年王から「引き渡させた」

1845年からの2度のシク戦争で、イギリス東インド会社はインドのシク王国を打ち破ります。1846年のソブラオンの戦いでは、退路の橋を失ったシク兵への砲撃が続き、シク側の戦死者は8,000〜10,000人と推計されています(英国立陸軍博物館等)。1849年3月、パンジャブは併合されました。

このときのラホール条約第3条には、こう書かれています。「The gem called the Koh-i-Noor... shall be surrendered by the Maharajah of Lahore to the Queen of England(コ・イ・ヌールと呼ばれる宝石は、ラホールのマハラジャからイングランド女王に引き渡される)」。贈り物(gift)という言葉は、条文のどこにもありません。書かれているのは「引き渡される(surrendered)」です。

署名したマハラジャ、ドゥリープ・シングは当時10〜11歳の少年でした。母ジンド・カウルは1847年に彼から引き離されて投獄されており、母子の再会が許されたのは13年後の1861年です。当時の総督ダルハウジーは書簡に「コ・イ・ヌールはインドにおける征服の歴史的象徴となった。今やふさわしい安置場所を得た」と記し、「会社からの贈り物としてではなく、征服された君主の手から征服者たる女王の手へ直接引き渡される方が、女王の名誉にかなう」とも書いています。成人したドゥリープ・シングは、ヴィクトリア女王を「盗品の受取人」と私的に呼んだと伝えられています(伝記研究者アナンドの記述による伝聞)。

公平のために付け加えます。この石は、イギリス以前も血とともに動いてきました。1739年、ペルシャのナーディル・シャーがデリーを略奪した際に奪われ(市民の死者は2〜3万人とされ、より大きな推計もあります)、拷問とともに持ち主を替えてきた石です。イギリスは「最後の、そして最大の帝国的所有者」になった——これがイギリスの歴史家自身の整理です。

■カリナン──数万人が死んだ戦争の3年後の「献上」

1899年からの第二次ボーア戦争。背景には、世界最大級の金鉱脈ウィットウォーターズランドの支配があったとするのが歴史学の主流的評価です(単純な「資本家の陰謀」説には異論もあります)。イギリス軍は焦土作戦で約3万戸の農場を破壊し、民間人を強制収容所に集めました。

その収容所で、ボーア人民間人が公式記録で27,927人死亡しました。約8割が16歳未満の子どもです。黒人アフリカ人の収容所でも、記録上14,154人、推計では2万人を超える死者が出ています。これを告発したのはイギリス人活動家エミリー・ホブハウスであり、イギリス自身が派遣したファウセット委員会が「初期に適切な措置をとっていれば死の大半は防げた」と実質的に裏づけました。

戦争終結からわずか3年後の1905年、併合されたばかりの旧ボーア共和国トランスヴァールで、史上最大の原石3,106カラットのカリナンが発見されます。1907年、植民地政府はこれを15万ポンドで購入し、国王エドワード7世の誕生日に「トランスヴァール人民の忠誠と愛着の証」として献上しました(立法評議会の採決は賛成42・反対19)。形式は購入と贈与です。しかし、征服の3年後に、征服された側が征服者へ贈った——この背景ごと見る必要があります。

■キンバリー──鉱床ごと併合された大地

1867年に南アフリカ初のダイヤ「ユーレカ」が確認され、ラッシュが始まると、1871年10月、イギリスはダイヤ鉱床のあるグリカランド・ウェストを併合しました。形式上は現地首長の請願と仲裁裁定を経ていますが、1875年の裁定で先住グリクア人の土地権は大幅に否定され、実質はダイヤ鉱床の確保でした。

その後の鉱山では、1885年からクローズド・コンパウンド制度が敷かれ、黒人労働者は契約期間中、鉄条網で囲われた宿舎に隔離されました。1883年からはダイヤ持ち出しを疑う身体検査が導入され、黒人労働者のみ毎回全裸、白人は着衣のまま目視——という露骨な人種差別が制度化されていました。南アフリカのダイヤモンド産業は、この労働の上に築かれています。

■イギリス自身が「略奪」と呼び始めた

この歴史は、告発する側だけが語っているのではありません。イギリスの歴史家ダルリンプルとアナンドは著書『コ・イ・ヌール』(2017年)で、この石を「インドからの略奪品(loot)として最も有名な物」と書きました。ガーディアン紙は王室宝飾の来歴を「植民地略奪(colonial loot)」という言葉で検証する連載を組みました。

2016年、インド政府の代理人は最高裁で「自発的に贈られたもの」と発言しましたが、世論の激しい反発を受け、政府は翌日「友好的に取り戻す決意」を表明して事実上撤回しました。パキスタン・アフガニスタン・イランも権利を主張しています。南アフリカでは2022年以降、カリナンI(530.2カラット)の返還を求める署名や政治家の要求が続いています(政府は2026年時点で返還を公式政策にはしていません)。

そして2023年、チャールズ3世の戴冠式で、カミラ王妃はコ・イ・ヌールの使用を避けました。宮殿の公式説明は「持続可能性と効率性」ですが、関係者が政治的機微を認めたと報じられています。王室自身が、この石の重さを知っているのです。

■まとめ

王冠のダイヤモンドは、条約と戦争と併合の先で、イギリスに渡りました。コ・イ・ヌールの条文にあるのは「引き渡し」であり、カリナンの献上の背景には数万人が死んだ戦争があります。美しさの歴史と、獲得の歴史は、別のものです。そして返還をめぐる議論は、いまも続いています。扱う側が、知らないままでいてよい話ではありません。

■天然か、処理か、合成か──買取の見極め

この歴史に対して、私たちにできることは限られています。できるのは、目の前の一粒に対して正確であることです。すでに世に出た石を正しく見極め、根拠を示して、次の持ち主へつなぐこと。リファスタでは、その石が天然か、処理か、合成かの見極めを拡大モニターに映し、お客様と一緒に確認します。LINEでの無料相談、公開している買取価格表、そして1点ごとの明細書で、価値の根拠を正確にお伝えします。

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※本レポートは情報提供を目的としており、投資・売却の判断を推奨するものではありません。

【データ出典】

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杉兼太朗
専門家

杉兼太朗(貴金属・宝石・ブランド品買取業)

ラウンジデザイナーズ株式会社 リファスタ

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