今なすべきことを振り返ると-
藤山一郎先生のご命日にあたり、言問学舎塾長ブログの記事を常体のまま転載させていただきます。
今日8月21日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになって33年、私は高校時代には真剣に「影を慕いて」などを拝聴していたが、小学生時代から紅白歌合戦での「青い山脈」(最後は全員で合唱。のち「螢の光」の指揮へ)やTVコマーシャルなどでお声とお姿に親しんでいたから、50年以上慕い、敬って来たことになる。
手もとに録画も残っているはずの番組で、ある時先生が「わたくしは戦前で終わった人間ですから」とおっしゃったことがある。謙遜して述べられたお言葉であろうが、私は当時「そんなはずがあろうか、いやありえない」という考えをぬぐうことができず、しばらくの間そのお言葉の意味を考えつづけていた。
もちろん深いお言葉の示すところを私ごときがうかがい知ることなど、できるはずもない。また先生が同じようなことをおっしゃるのをお聞きしたこともなかった。はじめに考えたのは、昭和6(1931)年から7(1932)年にかけて「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」、「影を慕いて」と続いた大ヒットの時代がそれほど桁違いの人気ぶりだったのだろうか、ということだ。だが、それでは「戦前」、「戦中」の解釈に関わらず、実情にそぐわない。「藤山一郎」の行路と業績は、東京音楽学校在籍中のその一期間にとどまるものではないからだ。
次いで、戦中に戦意高揚の歌を多く歌われ、海軍の嘱託(少佐待遇)として南方への慰問等海軍に帯同して活動なさったご経歴のことを言われたものかと考えた。この点について是非を論じることはできないので、先生の別の機会のお言葉を、まず紹介させていただきたい。「国費で音楽を勉強したのだから、学んだものを国にお返しするのが当然です。」(大意)
さて、かりに戦意高揚の歌を歌われ、海軍と共にあったことが一つの尺度で負の側に位置するとした上で、さらに「戦前」に対応する「戦後」の藤山先生の足跡を追ってみると、そこには常に、音楽と言葉を正しく愛し、明るさと平和を追究する姿勢が貫かれている。「青い山脈」と「長崎の鐘」がその双璧であろう。
とりわけ「長崎の鐘」には、永井隆博士から贈られた短歌「新しき朝の光のさしそむる荒れ野に響け長崎の鐘」にご自身で曲をおつけになり、お歌いになっている。ある時のステージでは、「長崎の鐘」について「讃美歌に近い(祈りの)心境で歌っている」という意味のことを、述べておられる。もし、かりに戦中のことが負の側に位置するのだとしたら、「長崎の鐘」が正の側の営みであることは、言を俟(ま)たない。
長崎の鐘
そして81年前の長崎、また広島のことを、われわれ自身もかさねて学び、さらに新しい世代に伝えていかなければならない時代の要請が、ますます強くなっている。私は、常に正しく生きる道をお示し下さった藤山先生に賜った自分自身の道を全うし、「長崎の鐘」を歌いつづけることを、今日のこの日にお誓い申し上げるのみである。「長崎の鐘・新しき」のYouTubeでの今年の公開はあと10日あまり、9月1日までであるが、「歌いつづける」ことに関しては、この動画のためにまる1年間毎日練習をした上で、録画・公開後も週に2度以上の練習を欠かしていない。いつでもどこでも歌うことのできる状態を保ちつづけることも、自分自身の大きなつどめであり、誓いであるのだ。
https://youtu.be/jzNjIy0_21Y 長崎の鐘・新しき 小田原漂情歌唱
令和8(2026)年8月21日
小田原漂情


