三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
8月6日、例年通り、言問学舎塾長ブログの文章をそのまま転載させていただきます。
1945(昭和20)年の8月6日、広島に原子爆弾が投下されてから、今年で77年が経過した。今朝のNHKによる「平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)」の中継は、国連のグテーレス事務総長の挨拶があったためか、式典終了まで放送された。広島県知事の挨拶は、例年そこで中継が打ち切られていたから、この25年ほどの中ではじめて見聞きしたように思う。来年以降も式典終了までの中継を継続されたい。
この1年で亡くなられ、今日名簿が納められた被爆者の人数は4,978人、これまでに納められた総数が333,907人になったという。毎年発表される名簿の人数に関してこのブログ上に記しているうち、もっとも古いのが8年前の2014年で、その時は「29万人を超えた」と記してある。また現在ご存命の被爆者の方々の平均年齢は84歳を越えたという。昨年のこのブログでは、松井一實広島市長の「被爆の実相を守り」と述べた平和宣言を引用しているが、当時を知る方たちから当時のことを教えていただき、伝えつづけることを、今後ますます重視していかなければならないだろう。
昨年10月に、日本原水爆被害者団体協議会代表委員、広島県原水爆被害者団体協議会理事長を長く務められ、核兵器廃絶を訴えていらした坪井直さんが亡くなられた。今日のNHKの放送では、坪井さんが「命ある限り、ネバーギブアップ!」とおっしゃる姿が映し出されたが、96歳でお亡くなりになるまで、力強く核兵器廃絶の声を上げつづけておられたお姿を、忘れることはないだろう。
そして、今日のこども代表の「平和への誓い」は、次のような言葉で結ばれた。中途半端にカットすると原文の意をそこなってしまうので、少々長くなるが、必要な箇所をすべて引用させていただきたい。
<過去に起こったことを変えることはできません。
しかし、未来は創ることができます。
悲しみを受け止め、立ち上がった被爆者は、私たちのために、平和な広島を創ってくれました。
今度は私たちの番です。
被爆者の声を聞き、思いを想像すること。
その思いをたくさんの人に伝えること。
そして、自分も周りの人も大切にし、互いに助け合うこと。
世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは、行動していくことを誓います。>
私自身、今年の3月には、長い間構想していた長崎、広島の取材行を実行した。長崎を訪れるのが27年ぶり、広島は18年ぶりだったが、広島ではそれ以前の訪問時以来30年ぶりに、広島平和記念資料館を見学した。また『碑(いしぶみ)』の広島二中の慰霊碑も、18年ぶりに写真撮影して来た。18年前は8月に『碑』の授業をするようになってまだ2年目であったが、その後毎年欠かさずつづけて来て、昨日、20年目の授業を行なった。また、このブログをはじめてから、毎年8月6日、9日には欠かすことなく思いをつづっている。昨年8月9日には、「今までの歩みを点検し直し、さらに具体的に歩をすすめるべきである」と書いたのだが、その歩をすすめる第一歩がこの長崎・広島行であった。
現在の終わりが見えないコロナ禍の下で本の出来時期を明言することはできないが、先日第2巻が出来上がったばかりの『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力』の高学年(以上)用第3巻に、広島と長崎のことを子どもたちに伝える文章を書いて掲載することを、次の目標としている。この数年ずっとこの8月6日、9日に考え、表明して来た私のつとめを、そのような手法で「具体的な形」とすることを、今日の私の誓いとしたい。
令和4(2022)年8月6日
小田原漂情