Vol.308 時代をつなぐもの

小田原漂情

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テーマ:小田原漂情

 例年のことになりますが、今日8月21日はわたくしの敬愛する藤山一郎先生のご命日にあたります。遅くなりましたが、言問学舎ホームページの塾長ブログより、この日に思うことをつづった記事を、転載させていただきます。常体のままの文章であることをおゆるし下さい。


 今日は令和3年、2021年8月21日である(私自身の必要のために記しておくが、土曜日だ)。28年前、すなわち1993年(平成5年)のこの日に、藤山一郎先生が亡くなられた。当時30歳だった私にとって、それはずっと迎えたくないと念じつづけていた、太陽のごとき藤山先生との、永の別れの日であった(一般に知らされた、つまり私がその報に接したのは、2日後の8月23日のことだった)。

 今日、この日を迎え、日付が変わる時間を前にして一文をしたためるにあたり、心に思うことがある。それが表題の、「時代をつなぐもの」ということだ。

 私は1963年(昭和38年)2月の生まれで、現在58歳である。藤山一郎先生は、1911年(明治44年)4月のお生まれで、亡くなられたのは82歳の時であった。その時私は名古屋に住んでいたが、藤山先生のご逝去が伝えられ、ご葬儀の日程と、お通夜の前にもご自宅に設けて下さった祭壇にお花を捧げにうかがうことができると知り、仕事を半日で切り上げて弔問にお邪魔した(この点で、昨年からのコロナ禍のため、慕う方とのお別れの時を持てない今日は、ことに「ファン」である人たちにとって、つらいことだと思う)。

 弔問におうかがいした日のことは、以前も書いている。だから今日は、この一日、いろいろ思い返していて、今私の心を占めている一曲について、述べたいと思う。それは1947年(昭和22年)に先生がお歌いになった、『浅草の唄』(サトウハチロー作詞、万城目 正作曲)についてである。

 じつは『浅草の唄』は2曲あり、戦前の1933年(昭和8年)にも、西城八十作詞、中山晋平作詞の同名の歌を藤山先生が歌われている。その意味ではこの歌のタイトルそのものが、時代をつないでいるのだが、私が今日お話ししたいのは、戦後のサトハチロー作詞、万城目 正作曲の歌についてである。また私自身の個人的な思い出に属するものであることを、お断りしておきたい。

 これも以前に当ブログ(コラム)で書いたことだが、私は高校3年くらいから、当時「懐メロ」と言われていた昭和前期の流行歌が好きで、少しずつその年代の歌を覚えては、自分でも歌うようになっていた(10年ほど前から少々YouTubeへの投稿もさせていただいている)。そのような青春時代に慕い、憧れるようになったのが、藤山一郎先生であった。今でこそ40年、50年前の音源(さらに画像)をネット上で視聴することもたやすいが、40年前、私が大学に入った頃は、ラジオのFM放送から録音するのが、もっとも身近に、古い時代の流行歌を手元で聴くことのできる方法だった。また著名な歌い手のヒット曲は、戦前のものでも、LPレコードに収録されていて、当時はまだ中古版なら、SP版からの復刻のものも手に入る時代であった。私はSPレコードそのものを再生できる蓄音機を購入するまでのことはできなかったが、SP復刻版を含め、当時入手した藤山先生のLPレコードを3枚ほど、現在も所有している。

 そんな二十代のある日、FMラジオからの録音であったが(エアチェックと呼ばれていた)、先述したサトウハチロー作詞、万城目 正作曲の『浅草の唄』(昭和22年=1947年の方)を、私は手に入れたのである。1980年代後半のことだ。当時の浅草は、今(2019年まで)のようにはにぎわっておらず、それゆえ『浅草の唄』(戦前版・戦後版を問わず)の情緒を、多分に残していたように思われる。その浅草に、私はしばしば足を運んでいた。浅草の町が伝えてくれる情緒に、強く惹かれていたのだろう。そんな私を、たずねるたびに浅草は、やさしく迎えてくれるようだった。

 だから私が、録音することのできたサトウ・万城目版の『浅草の唄』をすぐに覚え、折にふれ歌うようになったのは、自然なことだった。そして数年たってから、今は鬼籍に入られて長いこともあるためお名前を挙げさせていただくが、(短)歌誌『心象』の重鎮であられた岩崎勝三氏に仙台でお目にかかった際、駅ビルの中の飲食店の隅の方の席で、私は『浅草の唄』を歌わせていただいたのである。店員さんがそっと見に来たようだったが、様子を見ると何も言わずに下がってくれ(後で詫びを言ったのは当然のことである)、そして岩崎氏は、大いに喜んで下さった。氏はお若いころ浅草に住んでおられ、そのことをお書きになったご著書(随想集『さよならの前に』、同『増補 さよならの前に』)を、拝読してもいたのであった。そして氏は、藤山先生よりいくつかお若い、大正のお生まれでいらした。

 年代だけから数えれば、岩崎氏は私などよりはるかに上の年代で、藤山先生とほぼご一緒の年代の方である。しかしお生まれが大正であることと、岩崎氏から文庫本の、藤山一郎著『歌声よひびけ南の空に』をいただいたことが、私の藤山先生への敬慕と理解を深め、今また若い人や、子どもたちにも、明治、大正のことを伝えるバックボーンとなっていることを思い合わせると、岩崎氏から私が受け継いだものの大きさと、それを与えていただいた私が「時代をつなぐ」役をも受け取っていることを、思わずにいられない。まだまだこれから、私が若い頃多くのことを教えていただき、救っていただいた先人のお教えを、このあとの時代の若い人たちに伝えるべく、「時代をつなぐ」ことを、私のつとめとして再認識しようと考えた、8月21日であった。

令和3年(2021年)8月21日
小田原漂情

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小田原漂情
専門家

小田原漂情(学習塾塾長)

有限会社 言問学舎

自らが歌人・小説家です。小説、評論、詩歌、文法すべて、生徒が「わかる」指導をします。また「国語の楽しさ」を教えるプロです。みな国語が好きになります。歌集・小説等著書多数、詩の朗読も公開中です!

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