研鑽と進化を
故藤山一郎先生のご命日である本日も、常体のブログの記事を転載させていただきます。文末表現につきまして、おゆるしいただければ幸いです。
今年は雨が多い。局地的なゲリラ豪雨が多く(先日は住まいのある品川区でも雹が降った)、出水に見舞われた地域では、死者・行方不明者をはじめ大きな被害が出ているほか、東北地方を中心に米の作柄を危ぶむ声も聞かれはじめた。
24年前、1993年の夏も、今夏のようなゲリラ豪雨などはなかったが、長雨がつづき気温も低く、米の作柄は各地で平年を大きく下回ったと記憶する。
その1993年の今日、8月21日に、藤山一郎先生が亡くなられた。来年で四半世紀にもなろうという今日、先生のことをすこしご紹介させていただくのもよいかと思う。
藤山一郎先生は、東京日本橋のご出身である。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に学ばれ、クラシックの声楽家として将来を嘱望されていたが、昭和6年(1931年)に学費稼ぎのアルバイトのつもりで吹き込んだレコード『酒は涙か溜息か』が大ヒットし、一躍スター歌手となられた。しかし、後にこのアルバイトが学校当局の知るところとなり、あわや放校処分というピンチに陥ったが、日ごろの勤勉、成績優良と、アルバイトも家業を助ける目的だったことなどから、比較的軽い停学処分で済まされた。
卒業後は、流行歌手として文字通り第一線を走りつづけられた。歌われた歌は千三百曲にも及び、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『青春日記』などの抒情的な歌謡から、『丘を越えて』『キャンプ小唄』や戦後の『青い山脈』『丘は花ざかり』等々の明るい歌など、幅広い流行歌群を残して下さった。戦争中は、『燃ゆる大空』などの戦時歌謡も数多く歌われたが、戦後の昭和24年(1949年)には、『長崎の鐘』(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)を歌われ、最初のレコーディングの時は、38度の熱を押して吹込みをされたというエピソードが残っている。
藤山先生は、私が敬愛してやまない「先生」であるが、本日とくにお伝えしたいことが、二つある。一つはまず、前段で述べた戦時歌謡の吹込みに関して、「国費で勉強させていただいたから、国にお返しするのは当然のつとめだと考えた」と、先生ご自身が述べられたことである。国立の音楽学校で学んだこと、すなわち「国費で学んだ」ことであるという、「公」に対する意識の高さは、現代の社会が忘れてしまいがちなものでないだろうか。
また、これはいつもお話ししているように思うが、先生の「言葉を正しく使う」というご姿勢には、張りつめた厳しさが通っていて、言葉とともに生きる私にも、深い精神性を教えて下さった。今後もより一層、深く教えを賜り、受け継がせていただいたものを、守り、発展させて行くことを誓う、今日のこの日である。
2017年8月21日
小田原漂情