三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
かねてお話しした通り、先日の日曜日に、愛知県知立市、在原業平が「から衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」の歌を詠んだ、八橋(最寄駅は名鉄三河線の三河八橋駅)のあたりを歩いて来ました。
すこし、『伊勢物語』の本文(「東下り」)を、引用させていただきます。
<昔、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人一人二人して行きけり。道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。三河の国、八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋といひけるは、水行く川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭におりゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、あるひとのいはく、「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)にすゑて、旅の心を詠め。」といひければ、詠める。
から衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。>
現代は、木曽三川をはじめとして、河川は流路が整えられ、「蜘蛛手」のように入り組んだ川というものは、まずありません。しかしそれでも、このあたりは逢妻男川(あいづまおがわ)が流れ、すこし下流で逢妻女川(あいづまめかわ)と合流していて、車で田園地帯を走っていると、「たしかに川の多いところだな」と感じます。平成12年(2000年)の東海豪雨の際には、水害に見舞われたと聞いてもいます。
平安のむかしは、水の流れが蜘蛛の手足のように分かれ、入り組んでいて、橋を八つ渡してあることから、「八橋」の地名になったと、『伊勢物語』は語っているのです。
「かきつばた」の五文字を「句の上にすゑて」詠め、とは、「から衣」の「か」、「きつつなれにし」の「き」、「妻しあれば」の「つ」、「はるばる来ぬる」の「は(ば)」、「旅をしぞ思ふ」の「た」に、「かきつばた」が詠みこまれているということで、この技法を「折句(おりく)」と言います。ほかにもさまざまな技法を織りこんだ歌ですが、自ら思いきわまって出て来た旅とはいえ、不本意な出来事ゆえに「要なき者」となった身で、遠い旅路の果てに恋しい人を思う気持ちが、「みな人」の涙を「乾飯」の上にこぼさせたのでしょう。
その日の八橋一帯は雨模様で、かきつばたの咲く季節にはまだ間があるため、業平関連の史跡となっている無量寿寺やかきつばた園をめぐって駅へ戻るまで、数台の車以外、歩く人は一人も見かけぬわびしさの中、業平の心情に、すこし近づいた思いが致しました。