三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
例年かならず、一筆書かせていただいておりますが、今日10月26日は、灰田勝彦先生のご命日です。今年は、YouTubeで「詩の朗読」と、「昭和(前期)の流行歌」を歌うことを私の活動に加えましたので、本日、33回目のご命日に、『アルプスの牧場』を歌わせていただきました。
灰田勝彦先生のことをすこし紹介させていただきますと、先生は、明治44年(1911年)8月20日にハワイでお生まれになり、お父上のご葬儀のために帰日された後、帰りの船便を待っている時に関東大震災に遭遇されて、その際運悪く盗難にあい、日本に残られました。先生12歳の頃です。
4歳年上のお兄様が灰田有紀彦先生で(当初は灰田晴彦と名乗られました)、『森の小径』、『鈴懸の径』などの名曲をのこされたほか、日本にハワイ音楽を輸入した「ハワイアンの父」として知られております。有紀彦先生の作られた「モアナ・グリー・クラブ」で、弟の勝彦先生も活躍され、独特の甘い歌声、とりわけファルセット(裏声。『アルプスの牧場』などではヨーデル)が他に類を見ない唱法として、先生の代名詞でもありました。
私は青春時代、ひょんなことから昭和前期(昭和6年〜28年ごろ)の流行歌に心ひかれ、『酒は涙か溜息か』『緑の地平線』などの悲しい歌を歌うことにある種の情熱を燃やしていましたが、一方で、「灰田勝彦さんの明るい歌を歌えるようになりたい」という願望を、いつからか持ちはじめていたのです。それをいつ実行に移すか、と思案していた33年前、昭和57年(1982年)の10月26日に、突然、灰田先生は亡くなられてしまいました。
その衝撃から、私はLPレコードを買いに走り、まず『新雪』から歌えるようになりました(2011年にYouTubeにアップ済みです)。さらに聞き覚えのある歌から、少しずつ練習して行ったのですが、知っていた歌の中に、「これはどうしても、歌うことはできないのではないか」という歌がありました。それが『アルプスの牧場』です。先述した裏声のヨーデルを使いますから、2オクターブ前後の音域を必要とするのです。
ともかく私は、「裏声が出なくともメロディーだけはなぞれるようになりたい」と思って、レコードにあわせて練習をはじめました。が、メロディーをなぞることはできるようになりましたが、どうにも物足りないのです。灰田先生のご存命中に『新雪』を覚えておかなかった自分が、灰田先生の後ろ姿を少しでも追うためには、この『アルプスの牧場』を歌えるようにならなければならない。そのように、心の内奥から突き上げて来るものがありました。
とはいえ、「裏声の出し方」という教本が、存在するわけでもありません。どこをどうやって高い声を出せば、あのような声が出せるのか、皆目わからないのです。それでも、何としてでもあの声に近づきたい、そう思ったのは、いちずな青春の思いだったのでしょう。
ひと月からひと月半ぐらい経ったころ、ようやく「裏声」らしい声が出はじめました。それを何とか伸ばそうとしている最中、通りがかりの小学生に「音痴!」と言われたこともあります。しかし、それまで努力らしいことをあまりしたことのなかった私が、その時はじめて、「決してあきらめない」、「できるまでやり通す」努力をして、そして成功したのです。
このことは、私にかけがえのない大きなものを、与えてくれました。『アルプスの牧場』が歌えるようになったことから、その後友人たちの結婚式などで大喝采をいただけるようになったのが、もっとも顕著な例でしょうか。しかし、それは「顕著な例」のひとつにすぎません。
努力はすれば報われる。そして、自分ではなく、「他の多くの人たちに喜んでもらうために、何かをする」こと、さらにそこから得られる喜びが、自分自身を変えてくれ、まっすぐ生きるための、言葉にできないほど大きな力となってくれたのです。
灰田先生が亡くなられて、今年で33年になりました。微力ではありますが、力のつづく限り、いつまでも、先生が私にのこして下さった大きなものを、私にできる形でまた違う方たちに伝えて行きたいと、願う次第であります。