決してあきらめずに
敗戦後70年の節目の日であります。個人ブログ(言問学舎HP塾長ブログ)より、常体のままの文章を引用させていただきます。
8月15日、全国戦没者追悼式をテレビで見ながら正午より黙禱し、天皇陛下のおことばを拝聴する。今回はじめて、「深い反省」という表現を盛りこまれたという。
あわせて考えなければならないのは、衆議院で可決され、現在参議院にかけられている、いわゆる安保法制と、昨日発表された総理大臣の「談話」である。
「談話」に関しては、すでにいろいろなところで指摘されているが、饒舌な割に「話す本人」の気持ちが見えず、誠意が感じられない。一部では、戦後50年の村山談話、60年の小泉談話の姿勢を踏襲しながら、「未来志向」の内容にした、との評価もされている。が、「未来」とは、何であろうか。
思い出すのは、ドイツの元大統領で今年1月に亡くなられたワイツゼッカー氏のことである。有名な1985年5月8日の演説には、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という一節が含まれており、わが国でもよく知られている(当時は西ドイツ)。今回の総理大臣「談話」が、自ら過去を率直に見つめているものか、否か、それは「言葉」であるゆえ、全文をよく読んでみれば明白であろう。「解釈」云々の問題でなく、「言葉」が正直に、雄弁に語るところを、皆がきちんと読み解く必要があると思う。
また今回の「談話」には、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫」という表現がある。はたしてそうだろうか。今年なされた多くの報道の中に、十代の若者たちが、祖父母のことを思って書いた詩や文章なども散見された。戦時下に命を落とした方たちの孫やひ孫の世代でも、自分の問題としてあの戦争のことを真剣にとらえる人もいるのである。
そして、ふたたびワイツゼッカー氏の演説に目を向けると(今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。とした上で)、「罪の有無、老若いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。」というくだりがある。
ワイツゼッカー氏の演説は、西ドイツの戦後40年に際して連邦議会で行なわれたものである。単純に比較したり、引き合いに出したりするのではない。真の「未来」を築くための「過去」への目の向け方として、どちらが信頼しうるか、そのことを考えたいのである。そこにこそ、われわれの大切な子や孫の世代、そして未来に対する責任があると考えるためである。いま、いくつかのことがらに対して私たちがとりうる姿勢が、その責任に直結するものでもあろう。
平成27年8月15日
小田原漂情