三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
高村光太郎の大正12年(1923年)3月の作品に、高校生の教科書にもよく収載されている「樹下の二人」があります。智恵子の実家の二本松(当時は福島県安達郡油井村漆原)で、松の木の根かたに二人で座って阿多多羅山(安達太良山)や阿武隈川のパノラマを眺める姿、その中で、智恵子の「女人の無限」をたたえた魅力が語られます。旺文社文庫『高村光太郎詩集』(北川太一編)の脚注に掲載されている「自注」を引用してみましょう。
「(智恵子は)長く実家に滞在してゐたが、丁度叢文閣から『続ロダンの言葉』が出て印税を入手したので、私はそれを旅費にして珍しく智恵子を田舎の実家に訪ねた。智恵子は大よろこびで二本松界隈を案内した。二人は飯坂温泉の奥の穴原温泉に行つて泊つたり、近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた。或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな見晴しをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に『嶽(だけ)』と通称せられる阿多多羅山が見え、前方はるかに安達が原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。」
脚注によると、穴原温泉に泊ったり、『続ロダンの言葉』が出版されたりしたのは大正9年のことであると言いますが、「詩に冬のはじめの野山の景色があらわれることなどからも、ここには幾度かの訪問の印象が重複しているのであろう」と北川氏はまとめています。
年譜によると、この前後数年間は智恵子の健康状態が比較的よかったとのことであり、光太郎と智恵子の稀有なる愛の様子がよくわかる作品です。本日はこの『樹下の二人』を朗読して、YouTubeにアップしました。お目通しいただければ幸いです。