決してあきらめずに
今日は広島で、43年ぶりに、雨の中で平和記念式典が行なわれたそうです。毎年、私個人のブログである言問学舎ホームページの塾長ブログでは、この日(および9日、15日)に思うことを記しているのですが、諸般の情況をふまえ、今年は「引用」の形で、本コラムにも同じ文面を掲載させていただきたいと思います。通常本コラムでは「敬体」で文章を書いておりますが、以下は引用となりますので、「常体」である点、おゆるしをいただきたいと思います。
今日8月6日、広島平和(記念)式典は、大粒の雨が降る中で実行された。雨の中での開催は、43年ぶりだという。
広島で原爆によって亡くなった人の数(原爆死没者名簿におさめられた人の数)が、29万人を超えた。対して全国におられる、被爆された方の数は20万人を下回り、平均年齢は79歳以上となっている。
今年のNHKの放送の中で、とりわけ印象的だったのは、原爆投下後の惨禍の中を生きのびられた方が、「自分だけ生き残ってしまい、死んで行った人たちに申し訳ない」との思いをずっと胸に秘め、生きて来られたという言葉であった。松井広島市長が平和宣言の中で引いた、当時を経験された方の言葉の中にも、同様のものがあった。
そしていま一つ、今年の放送では、平和公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれている、
安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから
の碑文に、例年よりも強く焦点があてられていたように思う。
この碑文の言葉には、往時からさまざまな指摘があったと言われる。その代表的なものは、「原爆を投下したのはアメリカであり、日本ではない」というものだろう。
しかし、ここに言うところの「過ち」の根底には、どちらが加害者でどちらが被害者という次元を超えた、深い「人間としての悲しみ」と「戦争に対する悔い」があり、「過ち」とは、人間の規(のり)を超えてしまった核兵器、そのようなものを生み出してしまった「人間の営みの罪」なのではないのだろうか。
そして、その成り立ちを措いて、広島で原爆によって命を落とした方々に対し、命をながらえて「罪」の意識を負いつづけた方々の多くが思いをかさねて来られた、碑文の言葉なのではなかろうか。
繰り返してはならない「過ち」。それは今、どこか遠い世界で議論され、なされようとしていることではない。きょうを生きるわれわれ一人一人が、真摯に考え、語らなければならぬことなのである。
平成26年8月6日
小田原漂情