もはや音楽というより文学?YOASOBIの曲を英語で歌ってみよう。
民主主義の本質を突く、自虐ネタを超えたユーモア
欧米社会、英語コミュ力において、ウィットやユーモアは、不可欠です。
とにかく、絶妙なタイミングで気の利いたユーモアを言える人は、頭の回転の速い人、何より、男女問わず人気者、「もてる人」となるのです。
その点、先日の岸田首相の米国議会演説は、ユーモアに溢れていたという点で、英語話者としてお手本になるでしょう。
(くどいでようですが、だからといって岸田政権を支持するというわけではありません。)
特に、拍手で米国議会に迎えられて後の、スピーチ冒頭の下記ユーモアは、いろいろな意味で、ただの「自虐ネタ」と言えない深みがありました。
Thank you, I never get such nice applause from the Japanese Diet.
(ありがとう。こんな素晴らしい拍手を日本の国会からもらったことは一度もありません。)
この時、米国議会場でどっと笑いが起きます。
岸田政権が裏金問題などで支持率が最低になっていることは、米国でも知られているし、また、ご当地、バイデン大統領も、高齢であることやイスラエルへの対応などで支持率が芳しくなことにも重なるのでしょう。
しかし、ポイントは、その笑いの後に拍手が起こり、スタンディングオベーションさえあったことです。岸田首相も、その拍手に我が意を得たりのごとく、微笑みながらウンウンとノディング(うなずき)をしています。
これは何を意味するのでしょう?
それは、第一に、独裁国家との比較でしょう。
北朝鮮を思い起こしてください。
金正恩氏が最高人民会議場に入場する際は、そこにいる全員が起立し、一糸乱れぬ拍手をするのが通常です。もし一人でも拍手しない「同志」がいたら、翌日には抹殺されているでしょう。
それは、ロシアや中国とて似たり寄ったりではないでしょうか。
「民主国家の長たる者、自国の国会から大拍手なんかもらったら、ある意味終わりだよね。」
そんなシンパシーが会場に漂っていたのかもしれません。
「もしトラ」から「ほぼトラ」へ。民主主義の砦の終わりの予感?
更にここからは、私の深読みですが、「もしトラが現実になったら、話は別だよね。」こんなニュアンスが共有されていたかもしれません。
「もしトラ」とはご存知のように、もしまたトランプ氏が大統領に返り咲いた場合の、日本含む国際社会全体の備えのこと。
なんでもトランプ氏は、「ディープ・ステイト(闇の政府)を解体すること。」を公約の第一に掲げているというではありませんか。
トランプ支持者たちは、この北朝鮮ばりの陰謀論を信じて疑わない層であり、なんと米国成人の4割が信じているというデータさえあります。
岸田氏はスピーチでこう挨拶しました。
I am truly honored to speak here in this citadel of democracy.
(私は、この民主主義の本拠地で演説できることを、真に誇りに思います。)
citadelは、城砦とか砦といった意味があります。
もしトラは、今や「ほぼトラ」となっているようで、「これで民主主義の砦もいよいよ終わりか。」との哀愁さえあったかもしれません。。
そう考えると、民主国家のリーダーは、下手にカリスマ性などなく「どうしようもないねぇ。」と国民が気軽にこきおろせるような、岸田首相みないにどこにでもいる普通のおじさん風の方が適しているのかもしれません。
ただ、そのように国民を油断させておいて、タカ派バリバリの政策をいつの間にか推進しまうという、アクロバティックな手法を取るケースもあるでしょう。
いずれにせよ、政治を負託している側の私たちは、「岸田首相の英語、結構うまいらしいよ。」そんなことでもネタにして、最低でも政治を話題にし、あきらめずに政権を監視し続けるべきでしょう。