だだをこねる子にイライラする親
1〜2歳ごろ。
自我が芽生え始めたばかりの小さな子どもたちは、
大人から見れば「どうでもいいこと」に、妙にこだわることがあります。
それは、ときに面倒だったり、
ときに“しつけ”のつもりで制止したくなるようなことだったりしますが、
実はその「こだわり」に、とても大切な意味があるのです。
たとえば、1歳を過ぎて歩けるようになった頃。
晴れた日なのに「長靴を履きたい」と言い張る子がいます。
理由は、ただ単に「履きやすいから」。
けれど大人はつい、
「今日は雨じゃないから、長靴は履きません」
「長靴は雨の日のためのものよ」
と、“正論”で納得させよう
とします。
しかし、子どもからすると
それは「自分の思いを受け止めてもらえなかった」体験。
自分の中で生まれた感情や希望を、
大人に否定されたという心の記憶が、じわりと残ってしまうのです。
そしてその記憶は、すぐには表れません。
けれど言葉を自在に使えるようになってから——
ちょっとしたことで拗ねたり、
AじゃなくてBがいいとごねてみたり、
大人が困ることをあえて繰り返したり——
“あれ?”と思うような形で出てくることがあるのです。
それは、
**言葉にできなかった頃の「もどかしい気持ちの残像」**とも言えるでしょう。
一方で、
1歳頃にどれだけ本人の「したい」「こうしたい」という思いに耳を傾け、
無理のない範囲でできるだけ叶えてあげた経験がある子どもは、
次第にこう思うようになります。
「お母さんは、自分の味方」
「自分の気持ちを大事にしてくれる人」
「言ってもいいんだ。お母さんはわかろうとしてくれるんだ」
こうした思いは、親への信頼へと育ち、
言葉を操れるようになってからの心の安定へとつながっていきます。
これは決して大げさな話ではありません。
「親が育てた子の姿」は、
まさに“親のまなざしの写し鏡”なのです。
もし、
お子さんの態度に「困ったな」「なぜ?」と感じる場面があるとしたら——
まずは責める前に、ふと立ち止まってみてください。
その行動の奥には、
かつて受け止められなかった小さな願いが眠っているのかもしれません。



