コミュニケーションに「正解」は必要ない
以前スポーツニュースを見ていて、
パラスポーツの結果の中で、ある選手のインタビューがありました。
「障害があるとか、ないとか関係なく、自分の壁を超えていくだけです」
と、記録を出したことに対する感想をおっしゃっていました。
ステキだなぁ、感じました。
仕事において、
上司のせい、部下のせい、会社のせい、社会のせい、
あるいは、自分には能力がない、無理、
と、できない理由を挙げてしまいがちですが、
最終的にやるか、やらないかを決めるのは自分です。
精神論のように聞こえるかもしれませんが、実はアドラーの理論にもそうあります。
「勉強しようと思ってるんだけど、ついスマホを触ってしまって・・」
意識では勉強するつもりなのに、無意識が邪魔しているかのように思ってしまう。
アドラーは、それを否定しています。
最終的に、
スマホを触るという選択をしているのは自分自身の意思なんですよ、
ということ。
私がアドラーの理論理屈の中で、一番腑に落ちているのが、この「全体論」です。
昔は、私自身が、できない理由をあれこれ並べて、やらないという選択をしていました。
私と皆さんは同じではないかもしれませんが、
同じ「やらない」という選択をするにしても、誰かのせい、何かのせいにしていると、
「本当はやりたいけど、できない理由があるから仕方ない」
と、自分に言い訳しているようで、納得感がなかった。
でも、自分で「やらない」という選択をしているんだと思うと、
「やる」という選択も、自分の意思でできることがわかった。
できない理由があったとしても、
「じゃあ、その中でできることは何?」
と自分に問うて、できる方法を探せるようになる。
障害福祉も、高齢者介護も同じだと、私は思っています。
できないから補う、
という考え方ではなく、
どうすればできる?
という意識で取り組む。
それが大事なんだと思います。