桜の季節に想う ~ どんな寿命にも永遠はない ~
ここ数年、『自分自身がどのように最期を迎えるか』を考える方が確実に増えてきました。テレビをはじめとして様々なメディアでも『終活』などという言葉が盛んに使われており、多くの方がご自身の人生の締めくくりに関心を持つようになることは、相続・遺言をはじめとした高齢者支援に特化した法律専門職の端くれとして非常に喜ばしい傾向であると捉えています。
もっとも、せっかく人生の締めくくりをご準備されたにも関わらず、ご本人の要望が実現されなかったという事例もまた同時に増えていることはあまり知られていないようです。先日も、ある訪問看護師さんとお話をする機会があったのですが、その中で『一切の延命治療を拒否し、住み慣れた自宅で最期を迎えたいと望んでおられた患者さんがいらっしゃったが、呼吸も乱れて苦しんでいるご本人を周りのご家族はどうしても見ていられず、最終的に病院に搬送され人工呼吸器を装着され、その後数日して亡くなられた』という事例を教えていただきました。訪問看護師さんは、ご本人は病院に搬送され人工呼吸器を装着されたため声こそ出せなかったものの、『どうして、こんなはずじゃなかったのに』と病室で天井を見つめながら亡くなっていったのではないか、また残されたご家族も『あのとき自分たちの選択ははたして正しかったのだろうか』と思い悩まれているのではないかとご心配されており、私自身も何ともやり切れない思いになるとともに、後悔の少ない最期を迎えるお手伝いができないものかと考えるようになりました。
確かに、どのように最期を迎えるかという問題は究極の自己決定権の範疇にあると言っても過言ではありません。誰に強制されるいわれなどあるはずもなく、できる限りの延命措置を講じて欲しいと願うことも、過度の延命措置を講じることなく可能な限り苦痛を取り除いて自然な形で最期を迎えたいと考えることも、その人が望む限りどちらも同じように尊重されなければならないのです。
しかし、人は誰もがひとりで死ぬことはできません。自分自身において納得が出来てかつ後悔の少ない最期を迎えるためには、最期を看取ってくれる家族はもちろん医療関係者の理解と協力が絶対に必要です。そのためにも、①自分自身がどこで最期を迎えたいのかは当然ですが、②自分自身の治療における内容・程度はどんなものをどこまで希望するのか、さらには③家族のなかで意見が異なるような場合には誰がまとめ役になるのか、などを元気な時から話し合うとともに出来れば『尊厳死宣言書』という文書にしておきましょう。この話し合いは、治療医と緩和医(もしくは在宅医)、そして看護師はもちろんケアマネジャーをはじめとした医療・福祉の専門職の方はもちろんですが、私どものような法律専門職も最初の段階から一緒に話し合いに参加させていただくとともに、しかるべき時まで確実に尊厳死宣言書を保管し、いざというときに関係者の感情を整理しつつご本人の要望を確実に実現するために客観的・公平な立場でオブザーバー(立会人)として意見を述べる役割を果たすことが出来たら、今よりももっと多くの方が『後悔の少ない、自分らしい最期を迎えることが出来る』のではないかと考えています。
もちろん、口で言うほど簡単なことではないことは充分理解しているつもりです。しかし、私はこの地域のひとりでも多くの方に後悔の少ない自分らしい最期を迎えていただきたい。だからこそ、もしも誰もやらないのならば自分がやるしかないと感じています。そのためにも、医療や福祉の専門職の方々と今以上にもっと密接に連携をとりながら、『後悔の少ない最期を実現するための地域における看取り』のお手伝いをし続けていきます。