その子の内側の体験の世界5
文章の水準に達し、語彙や文法が習得されても、それで社会的な言語能力がすっかり身についたとはまだいえないのです。生活のなかで私たちが実際に使う言葉は、言葉どおりではないからです。
言葉は嘘もあれば誠もあります。さらに「反語」もあれば「ジョーク」もあれば「婉曲」や「言外の意」もあります。こうした言葉の綾は一筋縄ではいきません。例えば、頼みごとをした相手が「考えておきましょう」と答えたら、これはしばしば婉曲の断りなのです。しかし、本当に「なんとか考えてみよう」というときもあります。「馬鹿だなあ」といわれたとき、それは言葉どおり軽蔑や批難とはかぎりません。むしろ同情や慰めの言葉かもしれません。親愛や愛情の表現のこともあります。やっぱり批難軽蔑の場合もあります。同じ言葉が全く正反対の意味であったりして、これでどうしてコミュニケーションがなりたつのでしょうか。
「比喩」もけっこう厄介です。「死ぬほどつらい」といいながら生きているし、それはまだしも「死ぬほど大好き」など、字義どおり考えるとわけがわかりません。
日常のやりとりでは、言葉そのものから情報をつかみ取るだけでなく、言葉の外にあるものから広く情報をくみ上げながらコミュニケーションするわざが必要です。私たち大人は、それを概ね身につけています。相手と自分とがどんな表情や態度のもとに発せられたのか、等々を手がかりに、またそれなりの人間心理への洞察を手がかりに、しばしば表現どおりではない「言葉の綾」を読み解いているのです。言語のもつ「指示性」よりも「表出性」の読み取りがここでは極めて重要になります。
この技は辞書や文法書でいくら勉強しても身につきません。対人的・社会的な交流の実体験の積み重ねを通して経験的に習熟していく以外に手はありません。従って、社会経験のまだ少ない小さな子どもでは無理だし、知的には高くても関係(社会性)の発達に遅れがある場合も、やはりこの段階でつまずくことが起きます。
こうした言葉どおりでない(ある意味非合理な)言語使用は、私たち人間がはなはだ複雑な「心理的存在」であるところから生じたものだと思います。
そして言語のこちらの面をどこまでこなせるかは、関係(社会性)の発達のレベルに大きく依存しています。一筋縄ではいかない人間心理、対人関係の機微への洞察力が求められているのです。
次回に続きます。