揖保乃糸の美味しさの秘密は手延べ製麺技能士にあった
播州そうめんの歴史は長く、13世紀半ばの室町時代には文献に記されています。今回は「揖保乃糸」の、現在に至るまでの歴史についてご紹介します。
「揖保乃糸」の歴史:播州そうめんづくりの歴史は室町時代から始まった
麺の誕生は、1700年ほど前の中国で、魏の時代といわれています。日本へは奈良時代に遣唐使によって素麺の元祖といわれる「索餅」が伝えられました。もち米をこねて細く延ばし、縄のようにねじり合わせたお菓子が「索餅」です。現在とはまだ形は全然違っていますね。
その後、鎌倉時代から油をつけて麺を延ばす、現在の形に近い素麺造りが始まったと言われています。室町時代になると細長い麺になり、「索麺」や「素麺」という文字が使われるようになったそうです。その頃には現在と同じ形になりました。
播州地域での素麺作りは、室町時代から始まったようです。兵庫県揖保郡太子町にある斑鳩寺に保存されている寺院日記「鵤庄引付」には、応永25年(1418年)の9月15日の所に「サウメン」の文字が記されています。具体的には、宍粟市一宮町にある伊和神社の社殿造営の祝言に「サウメン」を使ったということのようです。約600年以上も前からこの地で素麺が食べられていたのです。
奈良時代の「索餅」のころから、素麺はおもてなしの料理として食べられていたようです。お客様へのおもてなし料理や主人への献上物としても使われたそうです。素麺は特別な日の食卓に並ぶ料理だったのです。
それが室町時代になるとそうめんは寺院の間食として広がりました。主に寺院や宮中の宴会などで食べられていたことから、気軽に庶民の口には入らない貴重な食べ物だったことがうかがえます。
「揖保乃糸」の歴史:江戸時代のそうめん製造者仲間の約束
播州素麺の製造が本格的に増えたのは江戸時代に入ってからです。揖保郡神岡村の森村中右衛門が、阪神間から素麺製造の新しい技術を持ち帰ったのちに広まりました。
また、素麺作りは龍野藩が「許可業種」として推奨したこともあり、播州での素麺作りは本格的になっていきました。伝統の「揖保乃糸」が産地化したのは、龍野藩による素麺業の保護育成によるところも大きかったようです。
そして、素麺を作る農家が増えて「素麺といえば播州、播州といえば素麺」といわれるほど播州の素麺は美味しいと評判が広まっていったのです。
ちなみに、江戸時代からさかのぼりますが、戦国時代に豊臣秀吉が姫路城に入った時に、播州の煮麺でもてなされたと伝えられています。この当時から徐々に、素麺は庶民にも食べられるようになっていたそうです。
その後、播州での素麺の評判が広まるにつれて、素麺の生産量もグングンと伸びていくのですが、それにともない質が低い商品のままで販売し、播州素麺の信用を落とす人が現れるようになりました。
そこで、龍野藩、林田藩、新宮藩にある素麺屋仲間が集まり、品質について取り決めを行います。それが「素麺屋仲間取締方申合文書」です。違反した者は違約金として2両を支払わなければなりません。このように厳しく管理が行われるようになったのです。
「揖保乃糸」の歴史:明治以降のそうめん作りについて
明治時代になり、龍野藩が廃藩になったため、素麺作りにはこれまでのような保護がなくなりました。そこで素麺製造業者は、自分たちで播州手延べ素麺の伝統や品質を守るため、組織作りを始めます。
明治5年(1872年)に素麺製造業者が集まり、「明神講」を設立。品質の統一化や職人の賃金について定めるなど組織として始動していきます。
明治7年(1874年)には兵庫県の産業振興の動向に合わせて、組織の強化やよりよい製品作りを目指し、揖東西両郡の素麺業者によって「開益社」を設立します。このときに「素麺規則書」が作成されました。この「素麺規則書」には127人の製造業者が連名していたので、大きな産地として信頼と伝統を維持していくことを目指していたことがわかります。
明治9年(1906年)には「揖保乃糸」という商品名が商標登録されました。
その後、明治17年(1884年)に兵庫県から同業者組合準則に基づき、「開益社」は組合の設立に動きます。229名の設立同意書を集めて申請を行い、明治20年に現在の組合の前身となる「播磨国揖東西両郡素麺営業組合」が誕生しました。
昭和の戦前には組合員数が約3000件と拡大し、100万箱を超える出荷が記録されたほど、播州素麺は興隆しました。
しかし、戦中戦後は材料の小麦が不足し、出荷数が激減。減産の時期を組合の結束力で乗り越え、生産は持ち直しました。
昭和40年(1965年)のいざなぎ景気の頃には、品質の高い素麺である「揖保乃糸」は贈答品としてのニーズが高まりました。
「揖保乃糸」をブランドとして確立させたのは、徹底した品質管理です。厳格な品質管理によって消費者からの信頼が守られているとともに、生産者も責任と誇りをもち「揖保乃糸」の製造を行っているのです。