23【金融教育】FPの解説動画35分「初心者向け”iDeCo”とは 仕組みと使い方」
3.第2回早期退職募集
第1回早期退職から1年後、第2回目の早期退職の募集が告知された。
今度は問答無用の大量募集だった。特に管理職は率先垂範で退職を促すような文言だった。
この1年間は何だったんだろう!?
時がきた。
勤続7年半で退職金は750万円の提示だった。まだ不動産だけで生活できるレベルではなく資産と借入は同額、手元に残るキャッシュフローも良くて月50万円。しかも金利4.5%で1億の借入だ。現時点ではプラスなのかマイナスなのか・・・期待と不安が入り混じっていた。
それでも辞めるつもりになっていた。中途入社で出世させてもらった恩は感じていたこと、単身赴任も終わらせて自宅に戻ろうと思ったこと、何より1年前に部下に退職を促していること。
“38歳で早期退職かー、早すぎるよなぁ、ヨメさん怒るだろうなぁ・・・”
案の定、妻は怒った。
「これからどうすんのよっ!!。」
僕としては「おつかれさま、たいへんだったね。これから一緒にまたがんばろうね。」
なーんて言葉を優しく言われることを期待していたけど冷たい目で見られただけだった。
”早期退職&1億超の借入 僕と妻は39歳、子供は中2と小4”
30歳で前身のクレジット会社に入社する前は歩合制の生命保険会社に勤めていた。
友人知人へのアプローチから始まり、そこから紹介の連鎖をさせていくのが営業スタイルだった。紹介が途切れることはその仕事での行き詰まりとなる。3カ月やってみた。仕組みがよく分かった。交通費、携帯代、パソコン代、喫茶店代などちょっと動くだけでも経費がメッチャかかった。手数料の半分くらいは経費がかかる計算だった。MDRT(ミリオンダラーラウンドテーブル)と呼ばれる生保営業のトップレベルになっても経費を差し引くと普通のサラリーマンに及ばない計算だった。年収2,000万円超のスーパースターみたいな営業マンもいる業界ではあったが僕はうまくいく気はしなかった。出社は月曜日と木曜日の朝だけであとは自由。契約をとってもとらなくても自由が原則。でも、契約やアポが途切れると管理者である所長と毎日ロープレの日々。サラリーマンと変わらない。午前中にロープレのためだけに出社し、使い古された営業の金言を聞かされた。
「失敗する人はなんで失敗するか判る?途中で諦めるからだよ。」
人生の時間は限られていることが考慮されていないと思った。
夕方、幼い子供を風呂に入れていると、「自分はこれでいいんだろうか・・・」不安なんてもんじゃなかった。3カ月で46件の契約を獲得したものの転職活動を始めた。
今度は土下座してでもしがみつく。
ようやく初めて生きていくカクゴが決まった瞬間だった。
そんなことを思い出しながら日本BEの早期退職受付初日に応募用紙に署名し、担当部署宛てにFAXを送った。部下は8名のうち4名が早期退職に応募した。見込み違いだったのは成績なんて関係ナシの単なる頭数で早期退職を募っていることだった。会社自体が相当追い詰められていることを感じた。転職が初めての若い社員にとってはさらに大きな決断だったと思う。
それからもう一棟物件を買った。福岡市東区、3,300万円、10室、築25年、借入はオリックス銀行、金利2.7%、期間17年。オリックス銀行は福岡支店では融資を断られた。知らんぷりして大阪支店に持ち込んだところ、こちらは融資可決した。担当者次第としか思えないがとにかくラッキーだ。もちろん、銀行には早期退職することは伏せて。これでヨメさんにナイショの借入が1億3千万円になった。
2回に渡る早期退職で800人の社員が200名に削減された。
予想より多く辞めてしまい早期退職の担当者は退職者を出し過ぎて左遷された、という笑い話も聞いた。今でも勤務を続けている同僚もいる。ポストには不満があるようだが給与水準は下がっていない。踏み絵だったのかと思う時もある。
残る人と出ていく人。しがみつくのも立派な能力だ。出ていった人が成功者とみなされる確率は経験上、低い。自分にとって何がシアワセで何が大切なのか。勤務先・職位・収入・職種・家族・健康・時間・・・。時折、早期退職に応じた仲間で集まって酒を飲むが誰も昔話はしない。未来を見ることのできる人種なんだろう。
4.単なる僕
僕は早期退職した。
不動産を主体に整骨院を開業しようと考えていた。
不動産のことをヨメさんや両親、義父母に初めて伝えた。
ヨメさんはそんなに驚かなかった。カネさえ入ってくれば何でもいいらしい。保証人にもなってないし、僕が死ねば団信でローンはチャラになり資産は残る。ある意味すがすがしい。
両親は呆れ果てていた。「家族もいるのに会社辞めて、1億以上の借金をして・・・。」
義父母は心配ばかりしていた。「娘は銀行員と結婚し安泰だと思っていたのに・・・。」
僕は社会一般的には無職となり、「単なる僕」になってしまったようだった。
僕は京都府福知山市で育った。
盆地で夏は暑く、とにかく冬が寒かった。かなりの田舎で駅前にあるマクドナルドが一番オシャレな場所だった。実家は駅から山に歩いて20分くらいのまぁまぁ小高い場所にあった。田舎のただ広いだけの古い和風建築物。子供の頃の冬・・・。シャワーもない五右衛門風呂を冬場は2日に一回、エアコンなし、暖房は練炭炬燵のみ。家の中でも息が白かった。室内でも上着を着て、手袋をして勉強し、洗顔は外の凍った洗面器。毎年、耳がしもやけで腫れてひび割れた。自分の部屋の照明は60Wの裸電球。夜は漆黒。トイレは半屋外のぼっとん便所で行くのが寒いし怖かった。階段がきしむ音、般若の飾り面、大きな姿見など、リアルお化け屋敷。特に鏡は”むき出のまま夜を超すと異世界の自分と入れ替わる”という都市伝説を聞いてから怖くなった。田舎だけど都市伝説。異世界の自分になったら僕はどうなるんだろう?自分でも入れ替わったことに気が付かないのかも?まだ何も為していない自分の存在が無くなってしまうように感じていた。鏡に映る現実がイヤだったのかもしれない。鏡は布で覆うようにした。
トータルとして快適ではなかった。父はサラリーマンで兼業農家、母は専業主婦、祖父母は年金を受給しながら農業をしていた。それなりに田畑や山林を所有していたが相続税におびえて倹約生活、周囲の友達の家庭のように生活を楽しむ雰囲気はなかった。農業の繁忙期には子供も労働力だったので手伝った。田んぼが通学路の脇にあり、手伝ってる姿を友達に見られるのが当時は恥ずかしかった。タバコくさい食卓にも辟易していた。僕は小学生の頃からここから脱出して暖かい文化的な生活を送りたいと考えていた。そのためには勉強するしかない。ある程度のレベルの大学であれば一人暮らしをさせてもらえるだろうと思い勉強した。成績は良かった。小さい時から兄が父親に怒られる姿を見ていたため自然と要領よく過ごすようになった。夏休みの宿題は7月中に終わらせるタイプだった。スポーツは小学生の時に少年野球を2年間やった。カネがかかり、手伝いも減るので良い顔はされなかった。セカンドを守り4番を打たせてもらったが中学では続けるつもりはなかった。スポーツなんて本来は貴族の遊びだ。僕は勉強しないといけないと思っていた。スパイクがきつくて足が痛かったけれど買い替えてくれとは言えず一足で我慢した。
中学からはコツコツと勉強した。塾に行かなくてもほぼオール5だった。クラブはしなかったが生徒会の役員はやった。教師からクラブをやっていないことを不思議がられた。あまり負担のかからない地域の少年野球にだけ参加して消化した。
夏が近づくと山にクワガタを獲りにいった。福知山市でも駅前に近い地区のことを“町”と呼んでいた。町でクワガタやカブトムシを買ってくれる八百屋さんがあった。朝5時に起き、長袖・長ズボン、長靴、帽子にタオルの頬かむりという姿でもらい物の20インチのママチャリでクワガタスポットを何カ所も汗だくで走り回った。スポットに着くと最初にメインの木に行き、静かに木の周囲を見る。まずはマムシやスズメバチがいないか確認する。マムシがいることは少なかったがスズメバチはほとんどの確率でいた。スズメバチもクワガタと同じように木の蜜に寄ってきている。木の枝で払ったり、口笛を吹いて追い払ったり、石を当ててスズメバチを退治したりした。天敵がいなくなるとクワガタの姿を探した。手の届くところにいることもあるし上のほうにいることもある。見つけると優しく素早く手で捕まえた。その次に木の凹みや穴の中を懐中電灯で照らし確認する。浅い場所にいれば指でつまみだすし、奥にいるとピンセットやドライバー引っ張り出す。その後に白いシーツを木の周囲に拡げ、木を揺らす。するとボタボタその上に落ちる。木を揺らすために踵で蹴っていたがシーズン途中で痛くなり、大きな木づちで軽く叩く方法に変更した。クワガタは揺らされて落ちるのではなく木に不自然な振動を感じると危険を回避するために自ら足の爪を木から離し落ちる感じだった。気配を感じたり目が合っただけで落ちて身を隠す強者もいた。
多いときは一回で30匹近く獲れた。ノコギリクワガタやミヤマクワガタは8センチ以上になると300円くらいで買い取ってもらえた。コクワガタやメスのクワガタは10円くらいだった。6月半ばから7月終わりまでがシーズンで1万円超の臨時収入になった。小遣いとは別に自分で稼げることは嬉しかった。
高校はチャリで25分ほどの府立の進学校の特別進学コースにすすんだ。浪人など論外なので1年生のときから地道に勉強した。田舎ながらに各中学の成績上位者が集まっており同級生はみんな賢そうに見えた。英語と数学が難しくなったので個人経営の塾に行った。クラブは付き合いで合唱部に入った。僕は音痴だが、カネもかからないし女の子とも仲良くなれるかもという動機だった。
そんな調子で中学と高校は大学への通過点くらいの感覚で過ごした。
無難に勉強を続け立教大学に合格し、東京で一人暮らしができることになった。
東武東上線の上板橋駅から徒歩15分、家賃27,000円の木造ボロアパートが僕の城になった。風呂ナシの土壁の和室6畳間、和式トイレ、でも自分だけの空間は嬉しかった。風呂は近所の銭湯に通った。だから今でも銭湯が好きだ。初めて電子レンジを使った。初めて市販の麺つゆでソーメンを食べ、そのおいしさに感動した。初めて散髪屋に行った。実家では父親に髪を切ってもらっていた。兄と弟がいるので3人分の散髪代だけでも馬鹿にならない。タバコをくわえ酒を飲みながらハサミを握る父に代わり、オシャレであろう理容師に髪を切ってもらうようになるとすっかりシティボーイになった気がした。
大学では体育会少林寺拳法部に入部した。部活に憧れていたこともあり、何か身に付くことをしたかった。それにしても・・・。甘い言葉に半分だまされて突然、体育会に入ってしまった。新入生を勧誘するシーズンだけはこざっぱりした服を着て、ニコニコしてゴハンを食べさせて、練習はきつくないと言う。で、実際に入ると豹変するパターン。練習は厳しかった。ろくに運動したこともなかったので毎日が死ぬ思いだった。まさか大学生になって竹刀でしばかれたりするとは思ってなかったので恐怖だった。自分たちが殴られる竹刀を組み立てたこともあった。剣道部から竹刀の部材をもらい縛るだけだが、締め付け具合がポイントだった。柔らかいとムチのようで痛いし、硬すぎると折れてしまう。程よい硬さを同輩たちと真剣に話し合った。夜中にコンビニに行きホラー漫画を立ち読みし、この漫画よりはマシだと自分に言い聞かせた。
規律も厳しかった。4年間を学ランで過ごすことになった。最初は抵抗があったが慣れるととにかくラクで良かった。最終的には三段まで取得し、友人や後輩にも恵まれたので充実していたと言っていいと思う。
バイトもいろいろやった。部活が終わった21時以降や部活のオフの期間に集中してやることが多かった。ファミレスのホール、家庭教師、百貨店のお中元・お歳暮の伝票整理、警備員。ファミレスは都会的な気がしていたし、まかないが食べれたのでありがたかった。
4年生になり就職活動の時期になった。バブルがはじけた直後くらいの世代だが、さして苦労せず池田銀行と京都銀行で内定を得た。地銀にしたのはそこそこ給料が良くて転宅せずに暮らせそうという理由だった。どちらに行こうか迷った。規模からいえば断然、京都銀行だった。一方、ほぼ阪急沿線のみで店舗展開する池田銀行はアットホームで働きやすそうに思えた。池田銀行なら昔、父母が住んでいた空き家からどこでも通えた。迷ってる時に京都銀行の人事担当者から電話がかかってきた。「どうですか?ウチで決まりでしょ?池田銀行さんと比べられても・・・、ねぇ!?」上から目線の態度にイラっときて、その瞬間に「わかりました、御行は辞退させていただきます。池田銀行にいきます」と返事をした。
池田銀行に決めた後、僕ともう一人の東京採用組と東京支店長の3人で皇居近くのホテルで内定者食事会があった。東京支店長は池田銀行では出世コースで役員だ。外回りに出ていた時の話を聞いた。ある大企業の社長宅を訪問した時、社長夫人に「あなたは小さい銀行の割に明るい顔をしているわね」と言われたとドヤ顔で話していた。僕は少し後悔した。入行して実際に働き始めると、やっぱりどこか卑屈になって働いている人が多い気がした。都銀や規模の大きな銀行には自分たちは敵わない・・・。
給与も予想より低かった。満額のボーナスが1年目の冬に支給されたが総支給額42万円だった。30歳の年収が1,000万円だと勝手に思ってたが実際には半分くらいの水準、そして定年退職が55歳、退職金は1,000万円程度と聞き、入ってみないと分からないもんだと思った。
同期の総合職は44名で大学は関関同立出身者が圧倒的に多かった。性格的にも穏やかな人間が多く「何食べる?」ときくと「何でもええよ」と答える感じ。一か月の寮生活を経て本格的な社会人生活がスタートした。
早く独り立ちして仕事をバリバリやりたいと思っていた。そのためには恋愛とかにエネルギーを使っている時間はもったいない。最初に配属になった支店の女性と23歳で結婚した。家庭への憧れもあったし、自分さえ確立できれば大丈夫だろうと考えていた。社会人2年目の春だった。
結婚する5カ月前に阪神淡路大震災があった。震度6か7で自宅は半壊し同じ町内でも2名亡くなった。自宅は古い木造家屋だったが、狭い建物で柱が密集していたことが幸いし壊滅的な被害を避けられた。屋根の瓦が落ち、モルタルの壁に亀裂が入り、ガス・電気・水道がストップし、家具が倒れ、食器が割れた。電子レンジの中に明朝に温める牛乳をセットしていたせいで台所は牛乳臭かった。電気が3日ほどで復旧し、水道が一週間後、ガスは一か月ほどして復旧した。結婚の延期も考えたが、どうせ結婚するのだからと予定通りにした。実家近辺から大工さんに来てもらい修繕を間に合わせて新居とした。
ペイオフや銀行の統合・破綻など周囲を騒がしくなりつつあった。25歳になった時に長女が生まれヨメさんは銀行を退職した。家賃がかかっていなかったおかげで何とか生活はできた。
銀行はつまらなかった。朝早くに家を出て帰宅時間は遅い。窓口が空いている時間は来店客の対応、閉まってからがやっと自分の仕事ができる時間になる。見えないところでは陰湿なことも多い。何人か自殺者が出ていることも聞いた。ある支店の次長は支店長から嫌われスチールの事務机を取り上げられ、段ボール箱で仕事させられていた。各支店で怒鳴ったり、ネチネチと行動管理をしたり、思い描いていた社会人とは違っていた。僕もすぐに怒鳴る上司の配下になった時は会社で稟議書が書けず家に資料を持ち帰って書いていた。訪問予定表も家で早起きして書いた。家で仕事している分も含めるとマクドナルドよりも時給は低かった。ある時は支店の暗いトイレの脇に40分ほど立たされた。ミスをした僕が悪いのかもしれないが、立たされながら上司と別の場所にいれて嬉しいとさえ考えていた。人間関係や労働環境も精神的にもかなりつらい毎日だった。日曜日の夕方、家の近所の小さな公園に缶ビールとポテトチップスを持ってヨメさんと長女とよく遊びに行った。好きな時間だった。また一週間を堪えないともうこの時間が来ることはない。せっかく大学出て銀行に入ったのに・・・。葛藤していた。
震災で応急修理した自宅も建て替えてローンを組んだ。その区切りもあり、転職活動をしてみようと思い始めた。初めて転職すること・銀行を辞めることに不安はあったが、認めてもらえるところで前向きな仕事がしたかった。ヨメさんもつらそうに過ごす僕の姿を見ていたので反対はしなかった。僕は銀行の外回りをしているときにコンビニで買った転職雑誌“B-ing”で見つけた第三セクターに転職した。銀行は約6年勤めた、28歳だった。
震災復興を兼ねて再開発をする地域に新しく第三セクターを作り第一期の社員を募集するものだった。怒鳴られ続けたおかげで自分は何にもできないと思い込んでいたが、銀行で経験したことは社会一般でも活かせた。会社の帳票類等は新しく作成する必要があり、銀行の書類を思い出しながら真似た。年収は60万円下がり420万円になった。上司は大企業を定年退職した地元の名士だった。品と余裕のある人で将来はこんな風になりたいと思う人格者だった。特に数字に明るく総務経理的なことを教えてもらった。市役所の担当者ヒガシカワさんと出会ったのもここだ。かわいがってくれ、良いアニキ分で陽気で飛び抜けた行動力を持っている人だった。社員5名、パート30名という会社だったので何でもやらないといけない。駐車場の発券機が詰まれば直しに行き、喫茶店の皿洗いが足りなければ洗いに行った。自宅からも近く、クルマで20分。毎日がお祭のようで楽しかった。新規オープンから1年すると落ち着いてきた。業績も第三セクターらしく見込み通りとはいかないことが見えてきた。業績が上がらない限り給与も増えない、当たり前のことだ。第二子である長男も生まれた。喜ぶべきことなんだろうけど、またカネがかかる。生涯、年収450万円というわけにはいかないし、それすらも確実ではない。30歳を前にこのまま社会と隔離されたような場所で働き続けていいのかも迷い始めた。
この頃に池田銀行の同期がソ三ー生命に転職し、僕も彼から生命保険に加入していた。流れるような説明と合理的な商品、会社のネームバリュー。彼にずいぶん差をつけられた気がしていた。僕は自分の立ち位置を確認したくなり歩合制の生命保険会社にチャレンジすることにした。この生命保険会社に入ってからは前述の通りとなる。
~ 第5章・6章(3/4)へ続く ~
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」3/4
第1章・2章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」1/4
第7章・8章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」4/4