阪神淡路大震災 24年前の記憶

宮本博文

宮本博文

テーマ:社長のひとりごと

阪神淡路大震災 24年前の記憶


24年前の今日。
1995年1月17日 午前5時46分に起こった阪神淡路大震災から学んだこと。

この日を迎えるにあたり毎年立ち止まって「命の尊さ」を感じます。

24年前の思い出。
決断と孤独と絆を感じる一年でした。

阪神淡路大震災当時の記憶を、決して忘れることの無いように書き上げました。

当時、私は社団法人加西青年会議所第28代理事長の役職にいました。
加西から兵庫ブロック協議会議長を輩出しており、震災前日は、県下27青年会議所の委員長様を加西に招いて委員長会議を行っていました。
私が自宅に帰ったのが、深夜。
少し眠ったと思ったら大きな地震。
外に出て、街頭を灯りを頼りに辺りを見渡すと、瓦が落ちている民家が数軒。
ひどくはなかったんだと、安心しているところへ委員長会議議長から連絡有。

当日17日に兵庫ブロック協議会役員の新年祈願が、神戸生田神社で行われる予定でしたが役員と連絡が取れない始末、その上、生田神社が被害を受けているとのこと。

夜が明けるにつれ、テレビの映像をみて・・・信じられない光景。

取り急ぎ情報収集のために、加西市役所へ向かう。
加西市役所でも把握できない状態。
今、何が必要なのか?
神戸より給水支援の依頼要請があった。

震災二日目に給水支援でメンバーの志願者のみが神戸にはいる。
二次災害の危険性があるために組織ではなく、個人の志願に頼る。
実態の報告を受け、給水支援を加西市役所と継続することに決める。

青年会議所会員が中心となり支援。
神戸ポートアイランドは、液状化現象。
どろどろの道路を、給水車が走る。
エレベーターの止まった高層マンションの最上階まで「水タンク」を一緒に持って上がることが当たり前になっていました。
余震のある中で、支援に行くメンバーは徐々に増えていきました。

現地に行ったメンバーは、兵庫県民にとってシンボリックな街、神戸。
その将来に不安を感じたようである。

「理事長は加西に居て、指示をだして欲しい!」

その言葉に納得してはいるものの、我慢できずに、四日目に神戸中央区役所に情報収集に向かう。

公的避難所以外の場所への被災者が多く、お弁当などの配布に正確な指示ができない状態。
毎日配布される場所もあれば、全く物資が届かない場所もある。
区役所職員からは「自分達で判断してほしい」とのこと。
焚き火をたよりに人が集まっている場所に届けるしかない。
しかも、冷たいおにぎりでは・・・

現状の混乱を整理する必要性と、情報共有のために、播淡8JC(青年会議所)理事長会を震災五日目に行う。
淡路と明石は被災している為に出席が叶わない。
西脇、小野加東、三木、加古川、高砂、加西のみの会議。
尼崎JC輩出のブロック協議会会長も、被災しているにも関わらず、会議に駆けつけてくれた。

継続支援の必要性を確認しあい、私達が束なる支援ではなく、それぞれの地域のボランティア団体を取りまとめることに決議。
その上で、全国からの救援物資集積基地(グリーンピア三木 現ネスタリゾート 神戸)の管理運営を担当することにしました。
ここでの実態は当初「被災地に持っていきます」だけで、ノーチェックで物資が運び出されている光景をみました。

また、ある避難所ではテレビカメラと同行したボランティアグループの宣伝用の活動に不信感をもつ被災者も多く見られました。
私達が炊き出しの食材を持ち込んだ避難所で
「君達は今度いつ来てくれる?」の言葉に衝撃を受けました。
正直その約束が出来ない現状でした。
やはり、一団体だけでは継続は無理。
加西にはすでに支援をされていたロータリークラブ、ライオンズクラブ始め、PTAや福祉団体、婦人会様等、14の団体がありました。

早速【加西救援連絡会】直前理事長(青年会議所前年度理事長)に会長を受けてもらい発足し、さっそく毎週水曜日と日曜日の二回《400名の炊き出し》を継続することにした。

ところが、青年会議所メンバーからはJC(青年会議所)の御旗で活動したいとの声もあがっていた。

私は、例会の席上で声を震わせました。

「青年会議所メンバーも、地域の一構成員です。このような事態だからこそ、表に立つのではなく縁の下で、救援連絡会を支えなければいけない!
JCという団体は、今、忘れてください」

メンバーは根気強く、本当に良くやってくれました。
炊き出しボランティアスタッフのシフトや配車の手配、食材の手配、炊き出し機材の清掃と管理など。
炊き出しは、神戸北野《行吉学園》周辺被災者を対象としました。

食材が足りない・・・
それぞれの人脈を活かす。

わざわざ食料品店で買ってきた食材を持ち込まれたご婦人に 、メンバーが 「自宅にあるものでいいですよ」そう言うと「自分は現地には行けないし行っても足手まといになる、せめてこの食材を貴方達に届けてもらいたい」
その言葉に涙が止まりませんでした。

地元をはじめ、全国から食材を手配することとなりました。

家内の実家の亡義父の手配で、新潟の加島屋さんから「鮭の切り出し」などもいただきました。
感謝!

「現地での炊き出しの準備や後片付けに被災者の協力がない」
そんな不満もボランティアから出始める。
「してあげてる」気持ちを捨ててほしいとお願いする。

いつの日か、一人二人とお手伝いしていただけるようになった。
ようやく信頼関係が生まれた瞬間でした。

ライフラインがようやく戻りつつある状況で、衛生面を考慮し、今度は神姫バスや県の宿泊施設「いこいの村はりま」の協力を得て【友(湯)・愛バスツアー】を開催。

神姫バス様・いこいの村はりま様の全面協力のもと、バス2台に分かれて、加西のいこいの村に招待。
お食事を楽しんでいただき、お風呂や理容組合様のご協力による散髪。
準備した衣類に着替えて帰られるときは、やっぱり神戸の住民ですね、とてもオシャレに着こなされていました。

その後も、炊き出しを3ヶ月間継続しました。
近隣の市町村が夏祭りを自粛する中で、私達は
『神戸の復興』をキーワードに、祭りの開催を決定しました。

【K’sときめきフェスティバル(神戸のKと加西のK)】
神戸からも出店していただいたり、地元の各種団体様に協力していただき、バザーを中心に開催。
その売上金を寄付するコトになりました。

市役所の駐車場をお借りして、ステージやテントの設営。

お天気が良くない。雷が響く。

『開催当日早朝の測候所発表で 「警報」がでたら中止します。』

そんな心苦しい決断を、夜遅くまで設営準備しているメンバーに伝えると・・・
悔し泣きする実行委員長の姿。

「宮本理事長は、あまりに冷たすぎる…」という者も・・・
私は、離れた場所でひっそりと涙をぬぐいました。

念ずれば花ひらく。
小雨の中、無事に開催されました。

さらに、フォーライフレコード会社宣伝部の大学時代の友人に頼んで、全国で8会場しか計画していない【伊勢正三と池田聡のジョイントコンサート】も加西で実現。
メンバーはチケットを姫路の街頭で販売してくれました。
本当によく頑張ってくれました。

神戸では、ようやく仮設住宅が準備され、避難所から仮設に移られてから、まるで嘘のように今までのコミュニティーがなくなっていく…

一人暮らしの高齢者はお米を買いに行くにも大変な状況。

そこで《3ライス神戸(3キロのお米)》を、応援メッセージ付きで募集、配布するコトにしました。

緊急の連絡のために《ベルボックス(119への連絡)》などの研究と実践を【神戸元気村】亡山田和尚氏とともに、協力して実践していきました。

あっという間の2年間でした。

震災ボランティアの体験を通じて多くの方々と絆をつくることにもなりましたが・・・
失う辛さも経験しました。

当時の日本青年会議所会頭のご子息も震災で亡くなられているにも関わらず・・・
気丈にも、全国のメンバーに向けた救援の激励メッセージテープ。

当時、共に活動した青年会議所の同志も、その後体調を崩し、亡くなられた者も…。
震災以後の不況の中で、事業をたたむ者も出てきました。

今、このようにして三食いただけ、普通に生活出来る事を幸せと感じています。

人を支えるのは、やはり人です。
深い人との関わりこそ、苦しくもあるが、それ以上に喜びが多いのです。

『人の縁』に気づき、それを活かす人生を送りたいものです。
この経験が、今の僕を作り上げてくれました。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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