先送りしたくなった時
老人クラブの福祉大会の挨拶を考えていた時にふと「運命」という言葉が浮かびました。
ネットで検索すると
運命・・・・人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。
と書かれています。
今回の大会の催しで演奏の主催者が、50年前に個人レッスンを受けた私のピアノの先生でした。
自分の意志を超えた何かの力が働いていると感じた時に使う言葉だと考えると、50年振りに出会えることは、「運命の出会い」と言えます。
もし、先生が音楽活動を続けてこられなかったら出会うことはなかったかと思います。また、私自身も長年続けている地域活動をしていなければ、出会う事はなかったかと思います。
この運命は、必ずしも、自分の意志とは無関係だとは考えられません。
それぞれが「命」を自分の意思で磨き続けていたことが、巡り会える機会へと運んできてくれたように感じます。
このことを考えると「命を運ぶ」努力をし続けると、その時々に出会うべき人が目の前に現れてくるのかもしれません。
振り返ってみると、
・教員をしていた時に教育者としての自分を磨く機会に恵まれたり、磨いていただける人に出会ったのも、「いい先生になりたい。」という強い意志が働いていたように思います。
・退職後の起業ができた時にも、起業に必要な人が現れていました。起業にかける熱い思いがありました。
・また、起業後に出会う人々が、より良い事業にするために必要な人が現れているように思います。
・現在も、自己研鑽に努めていると、人間理解を深める方向に導いてくれる人や一緒に磨き続ける仲間が現れたりしています。
出会う人それぞれが、私が命を運ぶ上で出会うべき人として、出会ってくれている感じがします。
人生百年時代を迎え、自分の「命」を
・何のために使おうとしているのでしょうか?
・どこに運ぼうとしているのでしょうか?
・誰とつなごうとしているのでしょうか?
と、いろいろ考えることが、自分の命を大事にしているように思いました。
そして、これは、自分軸を明らかにすることになります。
出会いは、次の世代に何を残して人生を終えるのか、そして、幸せな人生を終えるために今の生き様でいいのか、などを見つめる機会のように思います。
目の前に現れている人が、「命を運ぶ上で重要な人」という視点から眺め、「今、なぜ現れているのか?」をじっくりとその意味を考えていると、目の前にいる人への見え方や自分のあり方が違って見えてきます。