お寺の存在価値。
私の祖母は今から10年前に八十七歳で他界しました。
幼少期から母親がいなかった私にとって、祖母は母親代わりの存在でした。
私や弟が寂しくないようにと、小学校の参観日にもしっかり来てくれて、
弁当を作ってくれたり宿題もよくみてくれました。
そのお陰で、一人親で寂しいと思う事はありませんでした。
そんな祖母の口癖は、「負げでられっかぁ~」でした。
どんな苦境でも笑顔で鼻歌交じりでそう言って、周囲に独特の励みと安心感を与えてくれていました。
そんな祖母でしたが、大病を何度も経験しました。
六十歳でガンで肺の片方をな失くし、八十歳でやはりガンで子宮をとりました。
八十三歳からは腎不全で人工透析を行いながらも、常に負けない心を忘れず、
それどころか周囲に笑いを与えるほど明るく過ごしていました。
最期も病に苦しまずに、満足げにスーッと眠るように息を引き取りました。
きっと「平均寿命まで生ぎだんだし、いいあんばいだべぇ。天国のじいちゃんのどごさ行ってみっかぁ」
と旅立ったと思います。
日頃、「終活」というキーワードを使い活動している私ですが、
祖母のエンディングに触れ、感じたことがあります。
それは、なにかを遺すという事だけが終活なのではなく、日々の生き方そのものが終活。
「人生という作品」を作りあげながら常に終活しているという事に気付きました。
結局のところ、生と死は表裏一体で、
死を迎えた時に、それまでどう生きたかが決まると思うんです。
私も、自分自身でつくり上げる人生を楽しみながら、
困難に「負げでられっかぁ~」と笑顔で立ち向かい、
いつか来る最期には「いいあんばいだべぇ」と満足して旅立つつもりです!