月曜の10分間:ちいさな創造のスイッチを入れる
目次
昔からずっと不思議に思っている現象がある。
男性が定年退職をすると「そば屋」をやりたがる。
仕事がうまくいかなくなると、そば屋。
会社を辞めたら、そば屋。
人間関係に疲れると、「静かな田舎でそば屋」。
人生の分岐点に立つと、日本人の脳内には必ず
「それなら……そば屋では?」
という選択肢が、ひっそりと表示されるらしい。
そば屋は、そんなに簡単な商売ではない
そもそも、そば屋は甘くない。
粉を仕入れ、打ち、水を管理し、火を使い、
毎日同じ味を出し続ける。
回転が命。
昼のピークは短く、夜は静か。
一杯の値段はせいぜい千円前後。
現実は、修行と段取りの世界なのに、
イメージだけは
「無口な職人」「暖簾」「粋」で構成されている。
舞台は、だいたい古民家
そば屋を始める場所も同じイメージ。
なぜか、そば屋を古民家でやりたがる。
「趣があって落ち着く」
「本物っぽい」
うん、確かにそう。
とはいえ、その言葉の裏では、
雨漏り、寒さ、動線の悪さ、謎の段差が待っている。
古民家とは、情緒とメンテナンス費が同時にやってくる建物ですもんねぇ。
それでも、やりたいと人は言う
それでも、やりたい情熱は高まる。
そして、やりたい人は下記のように語る
自分の手で作りたい
静かに暮らしたい
丁寧な仕事がしたい
美味しいって言う声が聴きたい
気持ちは分かる。
とても分かる。
ただし現実のそば屋は、
早朝から仕込み、昼に戦場、
午後は片付け、夜は明日の準備。
休みは少なく、腰と手首が先に音を上げる。
では、なぜそれでもそば屋なのか
理由は、意外とシンプル。
そば打ちは、料理経験がなくても始められる「料理っぽい何か」だから。
特に、長年仕事一筋だった男性にとって、
「料理を趣味にしよう」は、実はかなりハードルが高い。
包丁の使い方も分からない。
味付けの正解も分からない。
そもそも台所に立つ理由がない。
そんな中で現れるのが、そば打ちだ。
粉と水。
分量。
工程。
理屈。
失敗しても「修行中」で済む。
味にムラがあっても「今日は水回しが甘かった」で通る。
料理なのに、どこか工作や実験に近い。
しかも、ちゃんと“評価”がついてくる
自分で打ったそばは、
家族やご近所に配れる。
「すごいね」
「本格的だね」
普段は言われ慣れない言葉が、一杯のそばで手に入る。
しかも、そばはなぜか自慢しても嫌われにくい。
パンだと意識高そうで、
フレンチだと気取って見える。
でもそばは、
「渋い」「通」「分かってる」。
ちょうどいい。
終わりがないことも魅力的
そば打ちは、もちろん職人技。
極めようとすると終わりがない。
水回し。
延ばし。
切り。
ゆで。
さらに製粉まで入れると、もう人生が足りない。
しかしこの「一生かかっても完成しない感じ」が、男性の心をくすぐる。
ゴールがない。
正解がない。
でも、上達は分かる。
これは、定年後に突然放り出された人間にとって、非常に居心地がいい世界だ。
そして最後に、「職人」という物語が残る
メディアに出てくるそば職人は、だいたい無口。
「不器用ですから…」の言葉がピッタリで渋い。
朝が早く、夜が遅く、黙々と打ち続ける。
努力。
孤独。
研鑽。
そう、まるで“サムライ”状態。
会社員という肩書きを脱いだあと、
次に身にまとう物語として、
これ以上分かりやすいものはない。
ここまで来ると、そば屋をやりたいのは、
「分かりやすい役割」と「ちゃんと評価される世界」をもう一度持てるからかもしれない。
そして数年後、だいたい同じ言葉を聞く
儲からなかったけど、いい経験だった
店は閉めたんか~~~い!!
それは経験ではない。
そば粉代と設備費と体力を支払った、授業料ですがな。
それは、楽しさを通り越した、単なる道楽にしてしまった。
熱が冷めた後、あの一時の楽しさは色あせ、男子厨房に立たず。
本当に賢い人も、そば屋はやっている
本当に賢い人だってそば屋はやっている。
違うのは、そば屋で生活しようとはしていないこと。
本業は別。
そば屋は、趣味か実験か、あるいは人生の楽しみや趣味。
最初から勝ちに行っていないので、負けもしない。
最後に
人生に迷ったら、まずそば屋。
……ではなく、まず電卓です。
その一杯八百円、
あなたは何杯、毎日出せますか?




