この世界、知らんことだらけ:Vol.1昆布はだしを出すために“人生”を終える

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、福岡県福岡市出身の杉山 龍丸(すぎやま たつまる/1919年-1987年)
私財をなげうち、インドの砂漠に緑をもたらした人物のお話です。
砂漠に木を植えた日本人がいました。
名前は杉山龍丸(すぎやま・たつまる)。
1919年、福岡市で生まれました。
「不可能と思わなければ、すべて可能だ」
─ 杉山龍丸
その言葉の通り、インドの砂漠に木を植え、地下水を呼び戻し、米を育て、命をつなぎました。
夢野久作の長男として
杉山龍丸は、作家・夢野久作(本名:杉山直樹)の長男として誕生。
杉山家の長男として、
家訓 民を親にす
を叩き込まれて育ったようです。
祖父は国の中枢で働く人々に情報を送り続けた杉山茂丸は、夢想家の所を国家参謀。
父も祖父も、人々を支える活動を続ける家系に育ち、杉山龍丸自身も「命をつなぐ」ことに人生を捧げています。
戦後、福岡市東区唐原に広がる杉山農園の跡地を拠点に、インド人留学生の技術研修を支援。
陶芸、紙漉き、鋳物など、日本の伝統技術を学びに来たガンジーの直弟子たちと深く関わりました。
緑化のはじまり──香椎宮の不老水
杉山龍丸は、木を植えると蒸発+蒸散。
土壌の水がなくなると主張するガンジーの弟子たちを福岡市東区の香椎宮に案内し、そこに1000年以上湧き続ける「不老水」を見せながら、「森林が水を産む」ことを熱く説きました。
龍丸を信じようと思ったガンジーの弟子たちは、その後、インドの地で、本格的に植林活動をはじめます。
龍丸の没後、インドを訪れた息子の満丸に、
「龍丸は心で話した。だから、私たちも、心で答えた」と、語っています。
ユーカリ並木と蓬莱米──命をつなぐ技術
1962年、インドのネルー首相の招聘で現地を訪れた杉山龍丸。
干魃による餓死を目の当たりにします。
国連に訴えても相手にされず、民間の力で動くことを決意。
インドの国道NH1沿いに約470kmのユーカリ並木を造成。
地下水位を上げ、耕作地を広げました。
さらに、台湾政府から国外持ち出し禁止だった蓬莱米の種籾を粘り強く交渉して入手。
インドに届けることで、インディカ米の3倍の収量を得て、飢餓地帯を米の輸出地域へと変えました。
シュワリクレンジ──砂丘に緑を
ヒマラヤ南部の砂丘地帯「シュワリクレンジ」。
誰もが「緑化なんて無理だ」と言いました。
ですが、杉山龍丸は、モリンガやサダバルといった植物を使い、緑化法を確立。
遊牧民たちと一緒に木を植え、地下水位が上がり、農村が生まれました。
今では、インド北部から餓死者がいなくなったのです。
すべてを手放しても…
杉山龍丸は、福岡市東区唐原の46000坪の土地をすべて売却。
最後の1000坪を手放し、太宰府市国分の借家へ転居。
刀剣や茶道具など、代々継承された文化財も手放しました。
それでも、杉山龍丸は命を救うために動き続ける。
「命を使い切る」
──その覚悟が、杉山龍丸の人生を貫いていました。
中村哲さんとの縁
福岡YMCAで「アジアを考える会」を開いた杉山龍丸は、中村哲さんと出会います。
その会のメンバーの半数が、後のペシャワール会の設立メンバーとなりました。
中村さんはアフガニスタンで活動する中、
日本人スタッフに杉山龍丸のことが書かれた本『グリーンファーザー』を渡していたそうです。
命をつなぐ人は、静かにつながっていく
──その証のような出来事です。
今週の余韻
杉山龍丸の言葉を、金曜日の終わりにもう一度。
不可能と思わなければ、すべて可能だ。
あなたが今、何かに迷っているなら。
この言葉が、静かに背中を押してくれるかもしれません。



