感情に振り回される判断:決めつけのリスクに沼る罠
目次
伝えることに、ためらいが滲むとき
これで合ってるかな
伝え方、これでよかったんだろうか
そんなふうに、ことばの奥に迷いが見えることがあります。
産業カウンセリングの場でも、
間違えたくない
誤解されたくない
バカにされたくない
という気持ちが、ぎこちない会話にさせてしまうことがあります。
ですが、その揺れの奥には、
自分らしくありたい
ちゃんと届いてほしい
受け止めてほしい
という気持ちが込められているのです。
自己表現とは、正しさを証明するための技術ではなく、
自分という存在の輪郭を確かめ直す営みなのかもしれません。
1. 表現の手前で、迷いが語りはじめる
産業カウンセリングにお越しの方が、こんなふうに言いました。
「すみません、どう言ったらいいか……」と数秒沈黙したあと、
「ちょっと、モヤっとしてるだけなんです」とつぶやくようにおっしゃいました。
そこに整った文章はありません。
もちろん、理路整然と伝えてくださるわけでもありません。
ですが、その沈黙とつぶやきの間に、誰にもまだ見せていなかった本音の気配が確かにある。
言い淀みの時間。
迷ったあとの語尾。
言い回しを探している目線の揺れ。
そんな “語りきれなかった間(ま)” にこそ、その人らしい気持ちが言語化できずにいるのです。
だからこそ、産業カウンセラーの役割として、言語化できずにいる気持ちの翻訳を行っていくこと。
そのことで、自分にしっくりくる言葉を見つけて、気持ちを言語化ができるようになるのです。
2. “うまく伝える”より、“自分として話せる”こと
表現がうまくできないことを責める人は少なくありません。
けれど、カウンセリングの現場では、話し方の不完全さの中にこそ誠実さが滲むと感じることがよくあります。
- 完成された説明より、少し戸惑いながら語られたほうが本音に近い
- 曖昧さを含んだ表現に、その人なりの配慮が込められている
- 話す言葉よりも、語らなかった部分が“気にしていること”を物語る
だからこそ、
“正しい言い方”ではなく、
“その人がそのまま話せる空気”を支えたいとこの仕事をしています。
自己表現とは、誰しもわかるようにきれいに整えることではありません。
揺れていることも含めて、言語化して自己理解を深めることが先なのです。
3. 表現は、自分と向き合うための手がかりでもある
話すことは、「誰かにわかってもらう」ためだけの行為ではありません。
ときには、自分の感情を整理するために言葉にすることもあるし、
伝えようとして初めて、「自分がこんなふうに感じていたんだ」と気づくこともある。
いえ、伝えようとして初めて気が付くことの方が多いかもしれません。
言葉にしようとした途端、涙がにじんだ
ひとことで説明できないことに、長く抱えていた思いの深さを知った
語りながら「これはまだ、話しきれないな」と静かに感じた
こうした瞬間は、表現が外向きである以上に、内側との対話そのものではないでしょうか。
そして、伝えようとする行為には、自分の輪郭を確かめる時間が潜んでいるのです。
まとめ:その人らしい余白こそ、表現のあたたかさにつながる
整った言葉だけが、伝わるわけではない。
むしろ、「うまく言えないけれど、言おうとしている」
その空気の中に、その人らしい誠実さが
ふわりと立ちのぼっていることもあります。
自己表現は、正しさではなく、その人の感覚と距離に添った言葉を探す過程。
言い淀みも、沈黙も、ためらいも
全部が「その人として話す」という表現のかたちなのだと思います。
だからこそ、伝えようとした記憶が、その人らしさの一部になって残っていく。
それを大切に抱いていける場が、
働く人の関係性や心の温度を支えるのではないでしょうか。
次回の予告…
Vol.10|“わかる”ってなんだろう——共感と理解の間にある小さなずれについてへ
「わかってもらえた」感覚は、どこまで届いた状態なのか。
「わかったつもり」が、すれ違いの種になることもある。
そんな“共感のかたち”について書いてみようと思います。




