GW明けの新人離職が増加—企業体制の見直しが求められる

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、学研創業者の古岡秀人(1908年12月15日 - 1994年5月17)のお話です。
福岡を語るうえで欠かせない人物のひとり、古岡秀人(ふるおか ひでと)。
古岡秀人の人生は、教育に対する熱い信念と不屈の努力で築かれました。
戦後日本の復興を支えた「学習研究社(現・学研ホールディングス)」の創業者として、多くの子どもたちに学ぶ喜びを届けた人です。
私も子どもの頃に実験グッズが楽しくて、同級生と遊んだ記憶がよみがえります。
そう、毎週金曜日のコラムとして書きながら、学研の創業者は福岡出身だったんだと知るわけで。
こうやって、福岡県出身の方の活躍を探しては奇跡を振り返ると感動することも多く。
なんだか妙に気持ちが上がります。
幼少期:母の愛が支えた学びの道
1908年、福岡県小倉市(現北九州市小倉)。
古岡秀人の父は炭鉱で監督を務めていました。
ですが、落盤事故によって命を落としました。
古岡秀人はまだ5歳。
父との突然の別れを受け止めるには、あまりにも幼すぎる年齢。
残された家族を守るため、母ナヲは炭鉱で石炭選別の仕事を始めることに。
寒い冬の日、アカギレだらけの手に膏薬を塗りながら、母親は「先生になれ。」と伝えていたようです。
学校へ行く余裕はなくても本が味方。
古岡秀人は「中学講義録」という6冊の本をむさぼるように読み、独学で知識を身につけました。
何度も諦めかけても、母の言葉が古岡秀人を支えています。
そして努力の末、福岡県立小倉師範学校(現・福岡教育大学)へ進学。
やがて小学校教師となり、子どもたちに学ぶことの楽しさを伝えるようになります。
学研の誕生:戦後の日本に学びの光を
1946年、戦争が日本を焼け野原にした。
人々は家も職も失い、希望を見失いかけていました。
「この国の復興には、教育しかない。」
古岡秀人は、そう強く信じ、子どもたちの未来を支えるため、学習研究社(学研)を創業。
教材が不足していた時代、小学生向けの学習雑誌『学習』と『科学』を創刊。
この学習雑誌は、すぐに大人気となり、日本中の子どもたちに学びの希望を届けました。
その後も教科書や参考書を次々に出版。1980年には学研教室を開設。
子どもたちに学ぶ喜びを
自信を
生きる力を
その願いを形にしました。
教育への恩返し:古岡奨学会の設立
1980年6月、古岡秀人は考えました。
「父を亡くした子どもたちのために、何かできないか。」
古岡秀人は私財10億円を投じ、財団法人古岡奨学会を設立。
経済的な理由で教育を受けられない子どもたちに、学ぶチャンスを提供することを始めます。
それは、自分自身の過去への恩返し。
母が願った「先生になれ」の言葉。
それを自分だけのものにせず、もっと多くの子どもたちに届けようとしたのです。
もうひとつの情熱:競馬への愛
学研を育てる一方で、古岡秀人は日本中央競馬会(JRA)の馬主としても知られていました。
国内外で競走馬を所有し、勝負服の登録服色は「黄、赤襷、黒袖赤縦縞」。
教育とは別の世界でも、古岡秀人は夢を追い続けました。
そしてその夢もまた、人生を豊かにするものだったのです。
未来へ続く「学びの力」
1994年5月17日、古岡秀人はこの世を去りました。
ですが、古岡秀人の築いた学研の教育理念は、今もなお子どもたちに受け継がれています。
教育こそが未来をつくる。
その言葉の通り、古岡秀人の想いは子どもたちの学びの中に、夢の中に、そしてこの国の未来に息づいています。
学ぶことは、未来をひらくこと
教育は、知識を得るためだけのものではありません。
学ぶことで、人は夢を持ち、自分の可能性を信じることができる。
そして、その可能性がやがて社会を動かす力になる。
炭鉱の町に生まれた少年が、学び続けたことで、何万人もの子どもたちの未来を照らした。
それが古岡秀人の今日までに築き上げた在り方。
古岡秀人の願いは、今も子どもたちの未来を育む中で脈々と生き続けています。
~引用資料~
https://www.gakken-higashinaebo.com/p/39/
https://www.gakken.jp/furuoka/about/chief.html
https://www.114154.com/gakkenclassroom/idea/



