【福岡県みやこ町】NEC創業者:岩垂邦彦の人生から今を考える

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束です。
今日は幕末の混乱の中、福岡県直方市に生まれた貝島太助(1845年2月17日~1916年11月1日)のお話。
貝島太助は、幼い頃から家族を支えるために炭鉱で働き、時代とともに炭鉱経営へ乗り出す。
三度の事業失敗を経験しながらも決して諦めず、やがて筑豊炭田の発展に大きな影響を与る。
のちに、「筑豊の炭鉱王」と称されるまでに至った御仁です。
貝島太助の功績は単なる炭鉱経営の成功に留まりません。
働く人々の生活環境を守るために、学校や病院を設立。
労働者たちとその家族を支える仕組みを整えています。
貝島家の家憲を制定し、一族経営のあり方を確立するなど、彼の信念は政治や経済、地域社会にまで広がっています。
筑豊五大炭鉱王の中でも特に影響力が強く、福岡の歴史の中で欠かすことのできない人物の一人なのです。
炭鉱の街に生きた男
「人のために尽くしたい。」その思いを貫いた貝島太助。
福岡・筑豊の大地で石炭とともに生き、地域の未来を支えた人物。
そうはいっても、貝島太助の人生は決して華々しいものではなく、苦難の連続。
どんな試練にも負けず、一つひとつ乗り越えていく姿は、現代に生きる私たちにも響くものがあるのではないでしょうか。
貧しき少年時代、誇りを持てる仕事との出会い
貝原太助は1845年、太助は筑前国鞍手郡直方町(現在の福岡県直方市)の貧しい農家に生まれています。
幼いころから、父とともに炭鉱で石炭を掘る日々。
小さな手に馴染んだ石炭は、ただの黒い塊と思うことなく、「これが人の暮らしを支えているんだ」と、子どもながらに感じていたかもしれません。
幕末の動乱の中、少年だった貝原太助にとっては、日々の仕事がすべて。
雨の日も風の日も、炭鉱の暗闇の中で働き続けていたようです。
三度の失敗、それでも諦めない
時代は明治へと移り変わり、産業が発展していくなかで、貝原太助は自ら炭鉱を経営することを決意。
明治3年(1870年)から炭鉱経営に乗り出したものの現実はそう甘くなかった。
資金繰りに失敗し、倒産を繰り返す。
それでも貝原太助は決して歩みを止めていません。
「この土地をもっと豊かにしたい」
「ここで働く人の暮らしを守りたい」
その強い想いだけが彼を支え続けたようです。
そして明治18年(1885年)、彼はついに大之浦炭鉱を開坑。
これが筑豊炭田を発展させる大きな転機となり、「筑豊の炭鉱王」と呼ばれるまでに。
人のために尽くす、経営のあり方
「炭鉱が成り立つのは、人がいてこそ。」そう信じていた貝原太助は、従業員とその家族の暮らしを守ることに力を注いでいます。
私立大之浦小学校(現・宮若市石炭記念館)や岩屋小学校を設立。
子どもたちが学べる環境を整え、病院をつくり、炭鉱で働く人々の健康を守る体制を築いています。
他にも、貝原太助がよく使っていた言葉に、「御安全に」。
現代の建設現場でも、よくこの言葉や標語がみられています。
この言葉のもともとの意味は、炭鉱という過酷な環境で命を懸けて働く人々を思う気持ちが込められていたようです。
現代にも受け継がれる功績
筑豊炭田は歴史の移り変わりとともに終焉を迎えてはいるものの、宮若市石炭記念館や直方市の多賀町公園には、太助の築いた足跡が今も残されています。
この土地で生きた人々のために尽くし続けた貝島太助。
三度の倒産をしてもなお諦めなかった。
そして貝島財閥を築き上げることができる意志の強さ。
今を生きる私たちにも、心意気に響くものがあるのではないでしょうか。



