昭和時代の家庭の役割:家庭の役割と人間関係構築のヒント
過去に、とある業界の社員研修や新人教育をしていたころ、
鬱持ちをはじめ、躁鬱、統合失調症、境界性パーソナリティ障がい、心を病んでいる人や、病んでしまった人の対応も多々ありました。
厚労省が掲げる「すべての働く人を対象とした、総合的な「心とからだの健康づくり運動」のトータルヘルスプロモーションは、今の指針と違い、依然は体の健康を中心としたものでメンタル疾患は除外されていた頃のお話です。
当時は、今ほどメンタル疾患の事は周知が浅く、取り上げられることもないので、管理職も理解不足。
このスタッフは、売上追い込みのこの時期のこのタイミングで勤怠が悪くなるので、対応方法を見直すか、面談や話を聴いてあげるなど、何かしらの対応が必要だと提案を兼ねた危険信号を出した時も、管理職からは、それは「オーバーだろう」「そんなことはないだろう」「なまけているだけだ」と一笑され、そののちそのスタッフの中には、リストカットをしたり、事件に巻き込まれ外に出ると殺されるといって出て来れない状況になった事例を思い出します。
「やっぱり、鎌田の言ったとおりだった。退職になったよ」と事前に対策を打つ手立てがあったにもかかわらず、人の可能性を潰した後に言われても、私は納得できるはずがありませんでした。
今とは違い、メンタル面においては、企業責任は問われることはなく、ましてや責任者もその事に詳しくないので、どう対応していいのか手探り。
最終的に、教育担当という役割を持つ、私の判断にゆだねられることとなり、どこまで手を差し伸べるべきか、どこまで対応することが望ましいのかというところでかなり苦悩し、医学書や専門書を読みあさり、医療現場の関係者に問い合わせ、管理職者に危険信号をだし、対応や勤務内容を変えるよう伝えた記憶がよみがえります。
しかし、そういったメンタル疾患を抱えたスタッフは、企業ではお荷物になるので、最終的には労働契約書や誓約書の内容を理由に雇用取り消しになることも避けられません。
当時、組織に属していた頃の思い出は、馬の目の前ににんじんをぶら下げ走らせ続け、走れなくなった馬は用済みで、生きがいい馬を探し、同じことをする繰り返しをしているに過ぎず、使い捨てとは、まさにその事ではないか??と反発心が生まれ、それと同時に、この企業で人を育成する事は拒否したいという嫌悪感が日々募っていきました。
企業だって、いまだに変えられないことも多く、難しいところだってあると知っています。
そのため、正規雇用の対応の強化はあっても、非正規雇用は増えるばかりで保証が少ないのは同じ。
4月1日から働き方改革法の施行に大きな期待をしているところではあります。
そう思いながら、病気になる環境を作っている企業のあり方はもちろんですが、病気になるまで働く人そのものの心のあり方にも疑問を強く感じます。
自分で予防はできないものか?
どうやったら、ストレス耐性能力を身に着けられるのか
気が付いた周囲の人や私にできることは何かを深く考えるようになり、それは今も不変です。
いまだに、カナダ人のカウンセラーから認知行動療法のノウハウを学ぶことや、キャリアカウンセラーや産業カウンセラーの社会人サークルに参加し自己研鑽を続け、ゴールの見えない山登りをしている自分がいます。
もっと、無限に可能性を育てることができ、それ以上に伸ばせることができたら、もう少し活動の場を広げられて、病気になる前に、悩みを解き放ち開き放つお手伝いができるようになるには、どうしたらいいのか、いまだに模索し続けています。