一生懸命の基準
私が子供のころ、両親はホンダに勤めていました。
今はどのように変化しているかわからないのですが、
昔のホンダ技研工業株式会社は組織というより家族経営が大きくなった感じでした。
そして、幼稚園時代の通園バス降り先は福岡市早良区原にあった西工場の事務所。
子供の私は、母の仕事が終わるまでの間、一人遊びをしていたり、事務所のスタッフの人たちの休憩時間や息抜きの時に、話し相手になってもらっていて、いつも大人に囲まれ、工場の片隅で遊ぶ機会が多かった記憶があります。
当時の私は、色んな人から遊んでもらい、事務所にいても退屈をしませんでした。
また、忘年会や社員旅行も一緒で、宴会の舞台で余興に参加して踊るなどしていたことも記憶の中にあります。
今思えば、子供のころに、接客・電話対応、どんな仕事をして、どんな事が必要なのか、書類に囲まれている机や整頓されている場所、機械油のにおいを鼻でかぎ、色々なところを眼で見て、肌で感じ取り、やりがいをもってイキイキと働く、かっこいいお兄さん・きれいなお姉さんを見ていたわけです。
そこから、大人ってかっこいい面白い、だから夕方は全力で頑張っているから疲れると理解していたと思います。
大人の働く姿を見れなくなった子ども達
当然と言えば当然ですが、
今では職場に子供がいることは、小規模自営などの家族経営をしているところに限られ、たいていは大人ばかりの職場になり、子どもは親の姿を見て育ちません。
そして、子どもたちの目に映る大人の姿は、疲れ果て、ため息と苛立ち、食事の支度もお惣菜を並べる姿、病気になった時の面倒は誰が見るのかという夫婦間の交渉が主ではないでしょうか?
だからこそ、全てとは言わないけれど、核家族になり、子供は学校と家、塾の往復、ゲームにはまり、くたくたに疲れたお父さんお母さんを見て、疲れているとテレビを見る音でさえもイライラする大人の世界に魅力を感じず、顔色を伺うようになることも否めません。
また、同級生同士の付き合いが主なので、世代が違う大人の対応に慣れる環境はますますなくなってしまいます。
親はたまの休みに、日頃かまってあげられないことや八つ当たりの罪悪感を持つので、子供と接するときはいつもと違いとても優しいという、極端な二面性がある姿も見せている可能性もとても高いのではないでしょうか?
いまどきの若者はという大人も、昔はいまどきの若者だった
そばにいる大人の機嫌をみて、昨日は笑ってくれたのに、今日は同じ事をしたらうるさいと言われてしまうような、理解できない機会が重なり続けてしまうと、生きる術として空気を読む事を学習し、結果的に空気を読んで世の中を渡る子が育っていくことも何ら不思議でもないのだと感じます。
空気を読みながら希薄な関係は、色んな面で作り上げられてきた副産物。
子供の責任ではないし、新卒の子が悪いわけでも、おかしいわけでもない。
全ては、大人がそう育ててきたからでしかないと気がついてほしいなぁと感じます。
生まれてきたとき、歩いた時、笑った時、しゃべった時、子供が成長するときに見られる初めて瞬間に立ち会えた喜びは、時間の経過や自分の環境変化で忘れてしまいがちです。
当たり前のことにも
この時間があるから今がある
“ありがとう”という気持ちを見失わないこと
生きる上で当たり前のことに感動と感謝を自覚できる自分でいたいと日々考えています。