急告 令和7年プレ入塾説明会兼冬期講習直前相談会開催のご案内
手もとに一枚のスナップ写真がある。37年前、私は満23歳で、季節はちょうど今時分、日付は入っていないが、10月19日か20日か、それくらいのことであったと思われる。場所は当時お世話になっていたリゾート開発会社の蓼科高原の貸別荘の一室だ。私はビール瓶を両手でマイクのように持ち、歌を歌っている。歌っているのは「鈴懸の径」だろうと思われる。
それは1986年、昭和61年のことである。数日前の10月16日に、灰田有紀彦先生が亡くなられた。写真の日は、そのことをお聞きした当日か、翌日くらいのことであったろう。
「鈴懸の径」は、灰田メロディーの代表的な曲で、歌唱だけでなくさまざまな形で演奏されて、世界的にも知られている。最初に発表されたのは、もちろん灰田勝彦先生の歌唱であり、戦中の1942(昭和17)年10月のことである。翌年(昭和18年=1943年)10月には学徒動員が開始される時勢にあって、明日の命も知れない若者たちが、友情と青春を愛惜して愛唱したという。
また1982(昭和57年)10月26日に灰田勝彦先生が亡くなられた直後、この「鈴懸の径」の歌碑が立教大学構内に建立された。碑の正面の文字は勝彦先生の揮毫であり、先生は碑の除幕式を楽しみにしておられたという。11月に行なわれた除幕式には、お兄様である有紀彦先生が出席され、悲しみのコメントを述べられたのだが、それから4年後の同じ10月に、有紀彦先生も世を去られたのであった。
さて、冒頭お話しした写真であるが、社会人になって2年目、蓼科高原で勤め先の紅葉狩りがあった時のものだと思う。私は観光事業部という、開発した貸別荘村の運営をする事業部にいたが、その夜は不動産営業部の社員が集まっている別荘の飲み会に参加していた。その席で、「灰田勝彦先生のお兄様の有紀彦先生がお亡くなりになりました」と発表して、「鈴懸の径」を歌ったのである。
その席には、当時その会社の営業部門を引っ張っておられた取締役営業部長のOさんがいらした。他部門の若手である私には、ちょっと怖い、雲の上のような方だったが、Оさんは立教大学のご出身だったこともあってか、その日の「鈴懸の径」を気に入って下さった。
私はその会社を満3年で退職したが、四半世紀ほどの時を経て、Facebookをはじめた頃、Оさんのお名前を拝見して、「私ごときが『友達』などとおそれ多いことですが」とMessengerでご連絡した上で友達申請をしたところ、「そんなことはまったくないよ」と承認して下さったのである。以来十年あまり、直接お目にかかる機会はなかったものの、Facebook上で折にふれて釣りのこと、山梨のことなどをお話しさせていただいてきた。
そのОさんが急逝されたという連絡が、昨日、当時同期だった友人からもたらされた。つい先日、Facebookでお誕生日のお祝いを申し上げ、碓氷峠鉄道文化むらで拙著『小説 碓氷峠』を購入して下さったと、お知らせいただいたばかりである。はじめ、ご葬儀の次第が添付されているのを目にした時、それがОさんのご葬儀だなどとは、まったく思わなかった。お名前を確認した時も、信じられない、の思いしか浮かばず、まさに言葉を失ってしまったのであった。
ふり返ると、会社でお世話になった頃、多くはない機会でありながら、教えていただいたことがたくさんある。入社一年目のことだったと思うが、八ヶ岳から帰京する際私が車を運転して、Оさんが助手席に乗って下さったことがある。小仏トンネルの手前だったか、上り線の渋滞に行き当たり、私は目と頭では渋滞を認めていながら、肝心の足が一歩遅れていた。するとОさんは短く、しかし強く「ブレーキ!」と促して下さった。私はすぐブレーキを踏んだのだが、役員をお乗せしているという意識からか、あるいは未熟ゆえか、ブレーキの踏み方が甘かった。そこへふたたび「もっと!」というОさんの注意があって、それから強くブレーキを踏み、それでもようやく渋滞の最後尾の少し手前で止まることができて、私は冷や汗をかきながら、Оさんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げた。Оさんはただうなずくだけで、下手な運転をした私をとがめることなどなさらなかった。
また、3年間勤めた会社を退職する際、その時の事業部は経堂にあったので、八幡山の本社まで、役員への退職あいさつのため課長が同行して下さった。社長室のあと、Оさんの席に伺い、それまでのお礼を申し上げると、Оさんは課長に向かってひと言、「こういう奴を辞めさせると、お前が苦労するんだぞ」と言って下さり、私にも笑顔を向けて下さった。過酷とも言える業務についていた3年間だったが、離れた部署でも見ていて下さった方があるということを実感したそのお言葉は、長く私の会社員生活の自信となったものである。
さらにFacebookでお付き合いをいただくようになってから、私が灰田先生の歌を歌わせていただき、Facebook上でお知らせすると、「私より一回り以上下の年代で、昔の歌をこんなに歌える人を知りません。」とのお言葉をいただいたこともある。大学を出てはじめて勤めた会社でお世話になった方は数多いが、直属の上司・部下の関係ではなかったけれども、Оさんは私にとって恩人と呼ぶべき存在のお一人だった。週末にご葬儀にお邪魔する予定にしてはいるが、何よりまずは、急ぎご冥福をお祈りする次第である。
灰田有紀彦先生のご命日に、私の履歴上の恩人のことを書かせていただいたが、一貫して思うのは、人生のしるべを与えて下さった先人、先達への感謝の思いである。願わくは、私自身も後進に何かをもたらし、慕われる存在でありつづけたい。そうすることが、かつて恵みをいただいた先達の方々への、私なりの恩返しなのだと思うばかりである。
恥ずかしながら、昔日の思い出のために
2023(令和5)年10月16日
小田原漂情